ひとつの時代が、まもなく幕を閉じる。あの華やかで、活気に溢れた時代が。
2012年3月、小田急を代表するバブルの申し子、10000形HiSEと20000形RSEが、短くも濃い現役生活を終えようとしている。
僕とロマンスカーとの出会いは、かれこれ25年ほど前のことであっただろうか。
まだ学校へ上がる前に行った、箱根にあるじいちゃんの会社の保養所への家族旅行。箱根登山バスに乗り換えるために降りた、小田原駅。そこで出会ったのが、小田急ロマンスカーだった。
三鷹生まれの三鷹育ち、国鉄型特急しか見たことの無い僕にとって、その出会いはあまりにも衝撃的であった。
落ち着いたバーミリオンに包まれた流線型、地べたを這うような低床、継ぎ目まで洗練された編成美。
脳天を突き抜けるような電流が走ったことを、おじさんになった今でも忘れない。それが、僕とロマンスカーとの出会いであった。
初めて目にしたロマンスカーである、NSE3100形。高度経済成長期の華やかさをもったその女王を、僕は引退まで追い続けた。
中学生当時、お小遣いの無かった僕は、三鷹南部の自宅からこの多摩川橋梁まで、ロマンスカーを見に何度も歩いてやってきた。決して、苦ではなかった。幸せだった。だって、ロマンスカーが見られるのだから。
NSEが引退したのは、1999年のこと。高校3年生の僕は、どうしようもない無力感、脱力感、切なさを覚えた。やりきれない想いでいっぱいだった。
生きがいをひとつ失った瞬間は、絶対に忘れられない。
そして13年後の今、その瞬間がまもなくやってくる。それでも多摩川は、そのときと変わらず輝いている。
あさぎりとして主に充当される、20000形RSE。あさぎり号の運転区間が沼津まで延長されるのをきっかけに、JR東海と仕様を同じく設計した車両だった。
それまで、ロマンスカーといえば展望車で、オレンジ色のが古いやつ、赤いのが新しいやつ、といった認識だった。
国鉄からJRに変わる頃、世間はバブル絶頂期だった。子供心にも浮き足立った世相を感じたのを今でも覚えている。
当時は0系ばかりであった新幹線に新型100系が生まれ、それと同時に新幹線や在来線までも2階建てグリーン車が生まれ。
そんな中で登場したのが、このRSEだった。
リゾート・スーパー・エクスプレス。観光特急という使命を背負って生まれたこの車両は、何もかもが新しかった。
それまで暖色系で統一されていたロマンスカーに、颯爽と現れた水色のロマンスカー。
その鮮やかで爽やかな車体には、たくさんの新機軸が盛り込まれていた。
展望席は無いが、眺めのいいダブルデッカー。背面テーブル付きの高い背もたれが立派な、JRにも負けない座席。
それでいて、グループで転回させたときにも使える、小田急伝統の折りたたみテーブル。そして何よりも、小田急初となるスーパーシート(グリーン車)。
JR発足直後の勢いのあった時代、小田急とJRがこの列車に懸けた想いが今でも痛いほど伝わってくる。
そんなスーパーシートも、JR東海との相互乗り入れも、まもなく姿を消す。
この車両が華々しくデビューした当時、僕は10歳。「行きはあさぎり、帰りはこだま。」当時流れていたCMが頭から離れない。
もうあさぎり号は、沼津へは行かない。この水色のボディーを目にすることはできなくなる。
新しい試みを満載しつつも、HiSEの流れを汲む側面の美しさ。ロマンスカーの持つ美意識を踏襲し昇華させたこのRSEとも、まもなくのお別れ。
曲線美に包まれたRSEを、今はただだまって見送ることしかできない。MSEがあさぎり号としてRSEを越えるまで、しばらく時間が掛かりそうだ。
10000形、HiSE。この車両は、NSEに次いで僕の人生を決めた車両だった。
人々は赤いロマンスカーと呼ぶが、鮮烈な赤と上品で控えめなワインレッドといったツートンの赤に彩られたボディーは、子供心にも妖艶だった。
それまでの、展望席の上に運転席が乗っかったデザインとは違い、展望席から運転席まで連続するようなデザインが斬新だった。
流れるようなラインを描く客室部。そこから立ち上がる運転席。その切り替えも、ハイデッカーならではの車高の高さから来る運転席後ろの処理も、それは秀逸だ。
今でこそ、赤いロマンスカーは2車種ある。が、このデザインは長らくHiSEの独壇場だった。
眺めの良いハイデッカー、シアターシートタイプの展望席、華やかな中に締りを与える、黒い連続窓風の側面の窓。
どれをとっても、小田急ロマンスカーの顔であったことは間違いない。HiSEだけに許された気品だった。
この写真に写る百合のエンブレム。小田急の伝統ではあるが、僕はスピード感溢れる白いラインを纏ったHiSEを忘れられない。
HiSE登場は1987年。ロマンスカーとの衝撃の出会いを果たしたのはその1年前だったと思う。だから、そのときはこの車両は生まれていない。
しかし、小田急という路線をそこで知った僕にとって、直後に生まれたこのHiSEは、まさしく小田急の顔であった。
傍観するだけの存在だったロマンスカーへの初乗車は、意外と早く訪れた。
当時小田原に住んでいた叔母に会いたいと、母にせがんで乗せてもらったロマンスカー。当時酷い方向音痴だった母にとっては大変だったことだろう。
その頃、一番の大所帯だったNSE。行きはその初恋の相手に、見事に乗ることができた。
コーヒー、紅茶を供するための給湯器の煙突から出る湯気、給水のためのホース、いまどき見たことも無い手動のドア。ホームで目にしたその光景に、国鉄とは違った不器用さ、そして、相反する華やかさを見た。
その列車は森永の担当だっただろうか、それとも日東だったのだろうか。アップルティーとアイスケーキ、列車で食べるその組み合わせが、どれだけ贅沢に感じただろうか。
そしてその帰りに乗車したのが、当時最新鋭であったこのHiSEだった。
当時は車旅行ばかりだったうち。白と赤が輝く新車に、胸を躍らせたことが懐かしい。
リクライニングはしないが、座り心地の良い座席。ハイデッカーらしく、視点が高く眺めの良い窓。当時ベージュ系の多かった特急列車の中で、白い化粧板が眩い車内。
新車の華やかさを持った車内に浮き足立ったのも束の間、列車は発車時刻に。
当時唯一遠方に住み、滅多に会えなかった叔母との別れ。僕は生まれて初めて、プラットホームとの距離を感じた。初めての、駅での別れを体験した。一生懸命手を振った叔母の表情を、今でも忘れられない。
NSEに傾倒していた子供時代。HiSEは、そんな僕の思い出を、ずっと支え続けてきてくれた。
当時ロマンスカーは11両編成の展望席付きばかり。例外はRSEだけだった。
NSEに乗りたいと思って往復するも、LSEが来たり、HiSEが来ることもあったように記憶している。当時ははこね運用に新鋭のHiSEが入ることが多かったので、NSEが充当されやすいさがみを狙って乗っていた。
ただ、そんな3100バカの僕でも、HiSEが来たときは嫌な気持ちはしなかった。
嫌な気持ちはしなかった。と書いたのは強がりで、今思えばNSEを愛しすぎて他の車両の良さを認めたくなかった、そんなガキな自分がいた。
正直、HiSEは大好きだ。NSEの次に、大好きだ。そのNSEがいなくなった今、僕の思い出を支え続けてくれているのは、このHiSEだけだ。
NSE、LSEと落ち着いたインテリアだったロマンスカー。その中で、外観に留まらず車内まで赤と青、奇抜な色を纏ったこの車両は、皆の憧れの的であった。
今見れば大したことは無いかもしれない。今見れば、昭和かもしれない。
それでも、この車両は最先端、羨望の眼差しを集める車両だった。これだけは譲れない事実。
鉄道車両の寿命は、使用状況によりさまざま。ただ、この車両はまだ人間で言えば40代そこそこ。
大抵の車両は、登場後15~20年後に大規模なリニューアルを受け、新車の輝きを授けられ、再び第一線で活躍する。その変身振りを見てもらうために。
欲を言えば、HiSEも、RSEもそうであって欲しかった。今まで楽しませてくれたお馴染みの洋服を脱ぎ捨て、新たな一面を見せて欲しかった。
ただ、もうそれは叶わない。自分の生き様を貫き通すかのように、この2人は引退まで粛々と走り続けるのみ。
NSEからVSEまで、展望車の最前列には全て乗った。その中で一番眺めのいいのが、このHiSE。
鋭い顔を持つHiSEの展望席には、他系列にはない天地と奥行きをもったガラスがはめ込められ、その展望は文字通り180度のパノラマ。
窓の大きさだけでなく、展望席をスロープ状にしたシアターシート、灯りが反射しにくい、一般客席とは違う光り天井。昼も夜も、僕らに展望の喜びを与え続けてくれた。
老若男女、誰もが憧れる、この展望席。すれ違う通勤電車の迫力を見れば、誰もが自然と童心へ。その証拠に、引退を知らない一般のお客さんで展望席はほぼ満席。
この座席に、どれほどの人々の夢を載せてきたことだろうか。みんなにとって特別な存在である。それこそが、ロマンスカー。
ダメだ・・・。ここまで書いて、モニターが滲んできてしまった。
13年振りの、大きなサヨナラ。綴りきれぬ思いは、僕の胸の中にだけ仕舞って置くことにしよう。
ありがとう、20000形RSE。
そしてありがとう、10000形HiSE。
先立つ同胞の無念を胸に、前を向いて・・・。
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