10月下旬、雨の八王子駅。半月前もここから旅立ったというのに、再び僕はこのホームに立っていた。だって、仕方がない。去年僕を骨抜きにしたあの湯あの宿に、無性に逢いたくなってしまったのだから。
それにしても、今月は旅に出すぎだ。はじめは上旬の木曽路だけだったはずが、あの湯に溶けゆく感覚にどうしても再会したく下部行きを決定。そこへ思い付きの浜松旅までねじ込んでしまったのだから、本当にやりすぎだと自分でも呆れてくる。
まあでもそんなことは、気にしない。今月三度目となる旅立ちを祝うべく、プシュッと開けるサッポロラガー。久々に味わう赤星の力強さを噛みしめていると、車窓には雨に煙る水墨画のような世界。
鉄路はいよいよ山深さを増し、勾配や曲線の連続に。立ちはだかる山を隧道で潜り抜け、蛇行する川の刻んだ深い谷を鉄橋でひと跨ぎ。この地形を克服した明治時代の土木力に、毎度のことながら驚かされる。
見下ろすほどの位置を流れていたはずの川との比高もいつしか縮まり、行く手には山に挟まれた谷筋が。ここを突き詰めてゆけば、その先に待つのは甲府盆地の縁を成す山。
甲州街道や川と絡み合いつつ進んできた中央本線も、意を決したように長く続く闇へ。明治36年に開通し、当時の鉄道用トンネルとしては日本最長を誇った笹子トンネル。120年以上もの長きに渡り、今なお現役で関東と山梨の交通を支えています。
4,656mの闇を抜ければ、中央東線は第二幕。相模湖、桂川、笹子川と遡ってきた相模川水系に別れを告げ、甲府盆地へと向け下りはじめます。
甲斐大和、勝沼ぶどう郷を過ぎ、いよいよ底へと向け盆地の縁を滑り降りるかいじ号。いつものぱっと開ける展望もさることながら、今日のこの幽玄を感じさせる世界感もまたうつくしい。
本当に、中央本線の車窓は奥が深い。大きな蛇行を交え、鉄道の苦手とする勾配を巧みに克服し下りゆく鉄路。進むごとに視座が変化し、雲に隠されていた塩山や甲府盆地の街並みがだんだんと姿を現してゆく。
仙人が姿を現しそうなモノクロームの車窓を愛でること1時間5分、かいじ号は終点の甲府に到着。ここで一旦途中下車し、まずは駅前の武田信玄公にご挨拶。
時刻はちょうどお昼どき、列車の乗り継ぎ時間を活かしここで昼食をとることに。当初は名物のほうとうをと考えていましたが、調べてみると甲府でも吉田のうどんが食べられるよう。ということで今回は、『吉田のうどん麺’ズ冨士山セレオ甲府店』にお邪魔します。
直結する駅ビルのレストラン街という立地もあり、入店したしばらく後にはほぼ満席に。いい時に入れたとほっとしていると、お待ちかねの肉天うどんが運ばれてきます。
吉田のうどんを知ったのは、だいぶ前のこと。それ以来ずっと気になっていたのですが、河口湖方面に行く機会がなくようやく今回初対面を果たすことに。
まずはほんのりと濁るおつゆをひと口。沁みるぞ、沁みすぎるぞこれは。吉田のうどんは、しょう油と味噌の両方を使い味付けするのが定番だそう。
しょう油の味わいもあり、味噌の柔らかいコクもあり。そのどちらも主張しすぎず、するりとお腹へと落ちてゆく。ふたつの発酵調味料のいいとこどり、絶妙なバランスをもつ折衷スープ。その優しくも深い味わいに、まず驚かされます。
続いて、吉田のうどんの特長である太くて硬いという麺を。箸で持ち上げれば、ねじれたまま出てくる無骨な麺。一本を頬張り噛んでみれば、グルテンの集合体であることを実感できるわしわし感。それでいて、嫌な硬さや粉っぽさは感じない。噛めばじんわりと甘味が生まれ、おつゆとの相性に頬がほころんでしまう。
具はサクサクに揚げられた野菜の甘味際立つかき揚げに、甘辛く煮られた豚肉。それらをおつゆにしっかりと浸して口へと運べば、また太いうどんが欲しくなる。ときおり茹でキャベツやわかめのさっぱり感を合間に挟み、食べ応えある麺をわっしわっしと食べ進めます。
まずはシンプルにその魅力を感じ、続いてすりだねと呼ばれる特有の薬味を。唐辛子をはじめとし、薬味や調味料を混ぜて作られるすりだね。これがもう華やかで。適量をスープに溶かせば一気に味が花開き、先ほどまでの優しい表情とはまた違った魅力に。
具の余韻で太くて硬いうどんを噛みしめ、続いておつゆを啜りまたうどんへ。最初は結構なボリュームだと思いましたが、気づけばあっという間に完食。これまで出逢ったものとは一線を画す独特な味わいに、一気に吉田のうどんのファンになってしまいます。
いやぁ、旨かった。お腹も心も文字通り満たされ、夜のお供を買い込み再び改札へ。前回はここ甲府へと戻ってきましたが、今回は先へ先へと進む一筆書き。またの再訪を誓いつつ、身延線のホーム目指して歩きます。
甲府城跡の見えるホームで待つことしばし、JR東海の普通列車の顔とも言える313系が入線。御殿場線に中央西線と乗車が続き、ここ最近だいぶ馴染みが湧いてきた気がする。
甲府を発車し、しばらくは中央東線と並走する身延線。金手で南へと針路をとり、甲府の住宅街を抜け黄金に染まる田園の中を行くように。
秋の実りのうつくしさに目を細めていると、列車は勾配を登り鉄橋へ。今渡る笛吹川は、この先で釜無川と合流し富士川となる川。広大な河川敷を持つあの姿からは想像つかない面持ちに、水の持つ力というものを改めて実感します。
中央本線が下った分を取り返すように、甲府盆地の縁へと挑んでゆく身延線。地形に寄り添いながら克服する鉄道だからこそ味わえる、平面地図にはない実感を伴う立体感。
列車は甲府盆地の南端、唯一の水の出口に沿うようにして縁を越え、ここからしばらくは富士川の支流の刻む谷を行くように。
あと少しで、あの湯あの宿と再び逢える。そのことを思うだけで、脳裏から心身の芯へと甦るあの浮遊感。山間から湧き立つ雲のように、待ち構えるであろう癒しの時間への期待が弥が上にも膨らんでゆくのでした。
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