静けさに包まれる秘湯の朝。窓から差し込む淡い光で目を覚ませば、辺りは一面朝靄の世界。すべてを溶かし包んでしまうような幻想を肌にも感じるべく、同じく乳白に濁る地の恵みの満たされた露天風呂へと向かいます。
冷えた肌に嬉しい朝風呂を味わい、部屋で一段落したところで朝食へ。会場となる本陣の軒下には干し柿や鷹の爪が吊るされ、江戸時代の渋さとともに山宿の郷愁を一層深いものとするかのように揺れています。
今朝もお膳には、たくさんの美味しそうな山の幸。しゃきっとした歯触りとちょっとしたぬめりが美味しいわらびのお浸しに、きのこや根曲がり竹の煮物。塩鮭は香ばしく焼かれ、目玉焼きも丁度よい半熟加減。
これらにふっくらとしたあきたこまちを合わせれば、あぁ、日本に生まれてよかった。そう心底思えること間違いなし。好物の納豆ご飯と具だくさんのお味噌汁で〆て、もうお腹も心も大満足。
手作りの美味しい朝食に舌鼓を打ち、あとはしばらく部屋と浴場を往復するのみ。そんな幾度目かの湯浴みを終え、喉も乾いたところでいけない午前の自堕落を。
湯上りの火照りを残す中、雪と冷気をつまみに喉へと流す金の星。これだから連泊はやめられない。一度この禁忌を味わってしまうと、ここから抜け出すことはもう不可能。完全に堕ちてしまったこの極楽に、今は何も考えず体と心を委ねるのみ。
ビールの余韻にうたた寝をしていると、ふと気づけば屋根をたたく音が。あれ?なんだ?そう思い窓を開けてみると、2月というのに雨が降り始めました。この時期ここは雪が降るはず。豪雪地に落ちる雨に、この冬の暖かさを強く実感します。
雨に打たれながらの湯浴みを愉しみ、お腹もすいたところでお昼ご飯を。今日は味噌ラーメンを頼んでみました。わかめと長ねぎがたっぷりと載った味噌ラーメンは、奇をてらわぬ安定の旨さ。秘湯での長旅はしばらく和食が続くため、たまにはこうしたものをふと食べたくなるのです。
気付けば秘湯での怠惰な午後も今日で終わり。楽しい旅は、何日あってもあっという間。悔しいけれど、毎度味わうこの感覚。そんな連泊のもたらす贅沢な午後の締めくくりにと選んだのは、大仙市は鈴木酒造店の秀よし純米生酒。スッキリとしていながらもしっかりと日本酒の味わいを感じられる、僕の好きなお酒。
秀よし片手に過ごす、部屋での静かな時間。そのつまみには、お茶菓子で出された納豆せんべいを。乾燥のひきわり納豆が散りばめられたおせんべいは、しょう油の香ばしさとともに広がるちょっとした粘りと香りが魅力的。
何もしない、でも過ぎ去ってしまう尊い時間。秘湯に5泊するという贅沢な旅も、もう今夜が最後。内湯での湯浴みを終えて外へと出てみれば、漆黒の闇の中浮かぶ宿の灯りがその感傷を一層深めるように輝きます。
時刻も程よきところで、今宵もろうそく揺れる雪灯篭に守られた道を本陣へ。お膳には昨日までとは趣向を変えた料理が並んでいます。
今日のお刺身は、岩魚のなめろう。コク深い味噌とねぎを纏った岩魚は、普通のお造りよりも一層複雑な味わいに。これ、抜群に旨い!でも連泊しないと出てこないメニューのようです。
何故か写真を撮り忘れてしまいましたが、焼き魚は鮎の塩焼き。囲炉裏の炭火でじっくりと焼かれた鮎は、ちょっとした独特の香りが堪らない。岩魚とはまた違った川魚の旨さに、秀よしがとまりません。
長芋の千切りに、きんぴらごぼう、きゅうりの和え物といった小鉢もそれぞれ手作り感あるふるさとの味わい。そして目を引くのが、ドンと鎮座する生姜焼き。これがまたほっとするような味付けで、お酒にもご飯にもぴったりの美味しさ。
続いて運ばれてきたのは、つるりとした美味しいきのこ。名前を聞いたのですが、残念ながら忘れてしまいました。薄めに味付けされたつゆと生姜が、きのこの滋味深い風味を引き立てさっぱりとした美味しさに。
そして今夜は、こちらも連泊しなければ味わえないというしょっつるも。鱈に豆腐、長ねぎにえのき。シンプルな具材を上手くまとめるのは、秋田名物のしょっつる。ほんの少しだけ色付いただしには、見た目以上にしっかりと詰まった魚の旨味。家でもしょっつるは使いますが、臭みを感じさせずに濃い味わいを出すこの技は、自分にはできません。
地元の味は、地元の人にしか出せない。これを味わいたいがために、僕は各地を旅しているのかもしれない。魚醤の余韻を胸に刻み、最後の夕餉を終えて部屋へと戻ります。
秋田で過ごす最後の夜。そのお供にと開けたのは、大仙市の福乃友酒造が醸す無調整純米吟醸酒冬樹。秋田の米と水の良さをそのまま味わわせてくれるようなしっかりとした味わいと、それでいて飲み飽きないクセのなさが嬉しいお酒。
酒に酔い、心の欲するまま濁り湯へ。全身の毛穴という毛穴に硫黄分を補給するかのように繰り返す、この作業。魅惑の香りと戯れられるのも、残り僅か。思い残すことのないよう、心ゆくまで鶴の湯の地の恵みを味わいます。
冬樹を噛みしめつつ外を見れば、空から勢いよく舞い落ちる無数の雪。きっと明日は白銀の世界が広がっているはず。そう思うと居てもたってもいられず、その雪の清らかさを浴びに再び露天風呂へと向かうのでした。
コメント