熱海から東海道線に揺られること21分、この旅最後の目的地である小田原に到着。この街へは、子供の頃から数えてどれくらい来ているんだろうか。そう思うほど、僕にとっては馴染みのある想い出の地。
駅からのんびり歩くこと10分足らず、市街地に突如姿を現す小田原城の広々としたお堀。駅の近くには北入口が設けられていますが、このお堀端を行くのが正規登城ルートとされています。
広い幅をもつお堀に沿って歩いてゆくと、城郭らしい建物が。ここにはかつて小田原城唯一の遺構である二ノ丸平櫓が残されていたそうですが、関東大震災で石垣とともに倒壊。その後規模を縮小し隅櫓の形で、昭和9年に復興されたものだそう。
昭和後期から、江戸時代末期の姿への復元が進められてきた小田原城。2009年、この馬出門の復元により正規登城ルートが完成。子供の頃は北口からしか登城したことがなかったため、完成後初めて訪れたときはこんなにもお城らしい姿だったのかと驚いたものだった。
この馬出門は、馬屋曲輪へと通ずることからその名が付いたそう。二ノ丸へと続く大手筋に設けられているため、護りの堅い桝形門の形式がとられています。
馬出門をくぐると、お堀や塀で囲われた小さな空間へ。その先に待つのは内冠木門。難攻不落の城として知られる小田原城。その入口からして、複雑な構造になっています。
内冠木門をくぐり馬屋曲輪へ。そこで目を引くのが、和洋折衷の独特な装いをした古い擬洋風建築。現在二の丸観光案内所として利用されているこの建物は、小田原町図書館として昭和8年に建てられたものだそう。
お堀の上に浮かぶように位置する馬屋曲輪を抜け、住吉橋を渡り二ノ丸へ。その正面口である銅門も周囲を土塀でぐるりと囲んだ桝形とされており、外側から見てもその護りの堅さが伝わるよう。
土塀に設けられた小さな門をくぐれば、廻らされた重厚な石垣と白亜の土塀に圧倒される空間が。その行く手に聳えるのは、二ノ丸の表門とされる銅門。平成9年、明治時代まで城を護り続けた往時の姿に復元されました。
かつて行政の中心地として小田原藩が御殿を構えていたという二ノ丸を進んでゆくと、ようやく天守閣の姿が。その手前にも威容を誇る門が見て取れ、この城が江戸の西側の護りの要として重要視されていたことがわかります。
そしてついに、本丸の正面を固める常盤木門へ。そそり立つ重厚な石垣、その上に横たわる巨大な門。この門も廃城まで残されていたそうで、写真をもとに昭和46年に復元されたもの。
幾重もの門をくぐり本丸へ、ついに天守閣とご対面。江戸時代に再建され、明治の廃城まで城下を見守り続けてきた天守閣。元禄の大地震で倒壊し、その後再建された際の設計図や雛形をもとに昭和35年に外観復元されました。
重厚な石垣の上に聳える、白亜の天守。まだ学校に上がる前、初めて目にしたこの雄姿。その後出逢った松本城や姫路城とともに、お城の持つ建築美に魅かれるきっかけとなった想い出の存在。
9年前に、耐震化とともに修復工事がなされた天守閣。今日は久しぶりに、その頂まで登ってみることにしよう。
小田原城にまつわる展示を見つつ、天守閣の最上階へ。西側には、すぐそこにまで迫る箱根の山。特徴的な二子山も、今日は雲の中。
北へと向かえば、遠くに聳える丹沢山地。厚い雲を支えるように横たわる黒々とした姿に、力強さを感じます。
北東方面には、城下小田原の街並みと相模湾。緩やかな弧を描く海岸線の遥か先には、うっすらとだけれど三浦半島の影も。
南を向けば、海に直接落ち込む箱根の山に真鶴半島、伊豆半島。手前にはこの旅の出発点となった小田原漁港も見え、この視野に今回の旅路がぎゅっと凝縮されているよう。
緑と海原に満ちた眺望を胸いっぱいに吸い込み、天守閣を後にすることに。その前にもう一度振り返り、見上げる雄姿。凛と立つ白亜の天守は、いつ見ても本当にうつくしい。
続いて、小峯曲輪に建つ報徳二宮神社へ。これまで何度も小田原城に来ましたが、お参りするのは今回が初めて。
鳥居をくぐると、右手には大規模な土塁と空堀が。これは北条氏によって築かれたものだそうで、戦国時代の姿を今へと伝える貴重な遺構となっています。
明治42年に建てられたという御社殿。その礎石には、小田原城の米蔵のものが使われているそう。天保の大飢饉の際に二宮尊徳翁が米蔵を開き、領内の人々を飢えから救ったという逸話が残されています。
その尊徳翁を御祭神として、明治時代にこの地に創建された報徳二宮神社。それ以来130年以上もの間、この静かな森で小田原の街を見守り続けています。
小田原栢山出身の偉人として有名な二宮尊徳ですが、やはりなじみ深いのはこの二宮金次郎像。この銅像は昭和3年に鋳造されたもので、全国の小学校などに千体ほど置かれていたそう。その後戦時中の金属供出により姿を消し、残るはこの一体のみという貴重な姿。
報徳二宮神社で初めて訪れることのできたお礼を伝え、南曲輪に接するお堀端へ。そこには、見事に枝を広げる3本の藤が。大正天皇が皇太子時代に小田原御用邸を訪れた際、その花の美しさに感嘆したことから御感の藤と名付けられています。
藤棚の隣の御茶壺橋を進んでゆくと、艶やかな花を咲かせる花菖蒲が。ここはかつての本丸東堀跡だそうで、6月にはあじさい花菖蒲まつりが催されます。
花菖蒲のしとやかなうつくしさを愛でつつ歩いてゆくと、頭上には大きな梅の実が。小田原名産といえば、かまぼことともにやっぱり梅干し。北条早雲が梅干しづくりを奨励し、その後江戸時代には旅人が弁当の腐敗防止や疲労回復のため買い求めたことから小田原名物として広まったそう。
赤い欄干の常盤木橋をくぐると、手毬のような花をつける大輪のあじさいが。梅雨時生まれの僕にとって、あじさいは小さい頃から何故だか無性に好きな花。じめじめした雨の日も、この艶やかさが心をふっと軽くしてくれる。
斜面を埋め尽くすようにして植えられたあじさいと、堀跡いっぱいに葉を伸ばす花菖蒲。これが満開を迎えたとき、それはもう見事な紫の世界が広がることだろう。
カメラ片手にこうして訪ねてみると、いつも以上に深く廻れた気がする。やっぱりブログという存在が、旅という趣味も濃く深くしてくれているのか。改めて、豊かな表情を知ることのできた小田原城。その凛としたうつくしさを改めて眼にこころに焼き付け、愛するお城に別れを告げます。
帰りの電車まではまだ時間があるため、国道1号線沿いを歩いてみることに。大正時代に建てられたという、済生堂小西薬局本店。江戸時代初期から東海道沿いに店を構え、現在の店舗は国の登録有形文化財にも指定されているそう。
その先には、城郭のような姿が目を引く建物が。ここは小田原銘菓として有名なういろう本店。北条早雲に招かれこの地に定住した5代目が建てた八棟造りと呼ばれる建物を、平成9年に再建したものだそう。
さらに進んでゆくと、趣深い建物が並ぶ一画が。ここが東海道の街道筋として、古くから栄えてきたことが伝わるよう。
多くの車が行き交う道沿いに、突如現れる路面電車。この電車は、箱根登山鉄道の小田原市内線として昭和31年まで走っていたもの。都電からこの地を経て長崎電気軌道と走り続けましたが、2019年に引退。その後クラウドファンディングで保存が決まり、小田原への里帰りが実現しました。
かつて路面電車が走っていた国道1号線。江戸から時代を経て令和まで、形は変われど東と西を結ぶ大動脈。街道沿いには豊かな表情をもつ建物が点在し、様々な年代の記憶が散りばめられている。
この瀟洒な洋館も、大正末期に建てられたものだそう。和の雰囲気をまとう建物が多いなかで、端整な表情が印象的。
東海道沿いに続く表情豊かな街並みを堪能し、東へと引き返して海辺へ。相模湾に面して延々と砂浜が続く、御幸の浜。寄せては返す波音が、旅の終わりを告げる。
目的地ではなく、やりたいことから端を発した今回の旅。だからこそ、これまで近場だからときちんと旅してこなかった地の魅力に出逢うことができた。
鯵の旨い小田原漁港から始まり、伊豆山の豊かな自然のなか人生初のグランピング。自分の中に眠っていた未知がざわつくのを、そこで久々に感じた。熱海では古くから湯の街として栄えてきた歴史を感じ、愛する小田原城の豊かな表情を再発見。
本当に、灯台下暗しだな。そして何より、自分の中にアウトドア属性が隠されていたとは。今回浴びた、初めての数々。旅が教えてくれることの大きさを改めて実感し、静かなる充足感に満たされひとり静かに旅の幕を閉じるのでした。
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