ついにこの日が来た。
僕が中学、高校時代の青春を全て懸けて追った、小田急ロマンスカー3100形NSE。7編成というロマンスカー中最多数を誇ったその女王の廃車が始まったのは、僕が中学生の時であった。そして、その部品が売りに出されることになった。
両親にお願いし即売会へと連れて行ってもらった。早朝から並び、ひたすら待った。そして、僕はこの愛する車両の座席を手に入れた。これが僕の高校合格祝いだった。本当に嬉しかった。
だけれど、こんな大きなものを東京のマンションである実家には置けない。そこで北海道にある祖父母の家で預かってもらうことにした。
そして今回、16年振りにうちの子になる日がやってきた。先日北海道へ行った際に送る手配をしたのだ。
海に近い祖父母の家に16年間置いていたので、塩害等や経年劣化を考え、半ば諦めていた部分もある。でも、運送屋さんと運び出しその包装を取り外した姿は、まさに現役当時そのままの姿だった。じいちゃんばあちゃんには保管の手間を相当かけたと思う。感謝、その思いに尽きる。
世界広しと言えど、この座席を個人で所有しているのは僕を含めてほんの数人だけな筈だ。そのことが、この車両に対する僕の情の深さを物語る、そういっても過言ではない。
やっと僕は、自宅に特等席を作ることができた。
その記念に、古い写真と共に、想い出を少しだけ振り返ってみたいと思います。
NSEを初めて見たときに僕を魅了したのは、低い重心と流れるような連続するフォルムから生まれる編成美だった。あれは確か学校へ上がる前だったはずだ。小田原駅に停車中のNSEを目撃した瞬間のことを、今でも覚えている。
NSEの持つ美しい曲線美は、それはもう秀逸であった。オリジナル塗装もさることながら、小田急電鉄70周年を記念して改造されたゆめ70の奇抜な塗装も、なんなく着こなしてみせた。どんな塗装を纏っても、この曲線美を隠すことはできない。滲み出る美しさが細部まで溢れる車両だった。
美しい曲線から全てが構成されていたNSE。その流れるようなフォルムには、死角が無かった。どの角度から見ても美しく、そして、角度を変えるごとに、新しい表情を見せてくれた。
NSEといえば、印象に残るこの目玉のような前照灯。ロマンスカーで初めて展望席を備えたこの車両が、衝突から乗客を守るために用意した美しき鎧だ。流麗なフォルムの奥に秘めた強さ。その強さが目力となって現われ、NSEの印象を更に強いものにしていた。
僕が初めてNSEに乗ったのは学校に上がる前、いや上がったその年だっただろうか。外観と共に国鉄とは次元の違う気品あるインテリアに驚いたことが、つい昨日のことのように思える。
昭和30年代の車両にかかわらず、古臭さを感じさせない上品な内装。それでいて、今の車両には無い落ち着きに溢れていた。
連接車という短さからくる圧迫感を減らすために取り入れられた広幅のドアなし貫通路。走行時に前方を眺めれば、普通の電車のカクカクとした動きとは違う、線路をなぞるようにうねる滑らかな動きを楽しめたものだ。
上品で落ち着いた内装、低重心で連接車の生む滑らかな乗り心地。それらも僕をNSEの虜にするには充分すぎるが、やはり一番は、流線型にマッチしたこの塗装だった。
先代のSE車から受け継いだこの配色だが、NSEは更にそれを華麗なものに昇華させた。長きに渡り、小田急ロマンスカーといえばこの塗装の独壇場だった。
そんな美しさに満ち溢れていた中で、全てが洗練されていた訳では無かったことが、またこの車両への愛着を誘うのだった。
NSEが竣工したのは昭和38年。すでに電車は自動ドアが採用されていたが、停車駅が少ないこと、居住性を確保することなどを考慮し、手動のドアが採用された。
平成の世まで走り続けた手動ドアの特急列車。終点になれば乗客自らドアを開け降りていく。車内販売の係員がドアを開けて見送り、出迎える姿は、この車両ならではだった。重い扉がバタンと閉まる音が、今でも耳に残る。
小田急は車両を大切にする鉄道会社だった。塗装が剥がれ薄汚れた車両が多かった国鉄、JRに比べ、相当古かったこのNSEは、引退の日までピカピカに保たれていた。今思えば暗めで垢抜けないこの塗装も、輝くボディーが映す光を纏っていたが故に、より一層美しく見えたのだろう。
僕の学生生活を全て捧げたNSE3100形。どれほど愛せど寄る年波には勝てず、ついに僕の前から姿を消した。高校3年生のことだった。
姿を消しても僕の心には永遠に居続ける。そして今、この愛するNSEの分身と共に生活できる幸せ。
窓際に座席を置いてみると、まるで昔からそこにあったかのように馴染んでくれた。腰掛けて窓の外を見てみると、幾度と無く乗車したときに眺めたあの車窓が甦る。
僕の人生を決めた存在、NSE。また僕のところに戻ってきてくれてありがとう。
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