幾多もの乗客を運び続けた青函連絡船。その人々の思いが染みついた船室部で当時の姿に思いを馳せ、今度は海峡の女王を支えた心臓部へと足を進めます。
こちらは船長室。多くの命と物資を預かるという重大な責任を負う役職に相応しく、広々とした船室と海峡を見据える三枚窓が印象的。
その隣には重厚なソファーが並ぶサロン会議室が。照明や日本人形、黒電話ならぬ緑電話などの調度品が残る様子は、昭和の輝かしい時代をそのまま詰め込んだタイムカプセルのよう。
現役当時に使用されていた備品類が多く展示される一画。その中でも目を引く分厚い本はハンドブックと呼ばれるものだそう。
船体部、機関部と分かれたそれには船名が書かれ、下部にはそれぞれの船を造った造船会社名も。言わば船の取扱説明書のようなものでしょうか。存在感あるJNRマークがまた懐かしい。
そしてここが巨大なこの船を操るブリッジ。越える海は荒れる津軽海峡。乗客のみならず、物資満載の貨車や北海道で活躍する車両を航送し続けた青函連絡船。北への大動脈として果たさなければならなかった安全航行への想いが、ここには詰まっています。
重々しい計器類やハンドルが並ぶ操舵室。その一角に鈍く輝く鐘が。これは号鐘というもので、古い時代には時報や衝突防止のために鳴らされていたのだそう。
この船には霧笛やレーダーが搭載されているため本来の使い方はしなかったようですが、古き良き航海の名残として、そしてこの船のシンボルとして取り付けられていました。
航海の安全を守る操舵室を離れ、船の下部に広がる車両甲板へ。これこそが普通の船とは違う部分、青函連絡船が鉄道連絡船であるという確固たる証。貨車だけではなく道内で運行される旅客車も、こうして海を渡り北海道へと運ばれたのです。
荒れる津軽海峡を渡る連絡船。車両甲板には鉄道連絡船ならではの装置が設けられています。端部には自動連結器付きの車止めが。車両としっかり連結し、前後方向の揺れから車両を守ります。
こちらは緊締具と呼ばれる金具。車両と床をしっかりと繋ぎ、横揺れによる脱線や転覆を防ぎます。
現役当時の雰囲気を色濃く残す車両甲板。敷かれたレールを辿ってゆけば、車両の出入り口である大きな船尾扉が。以前訪れたときには物置のようになっていましたが、こうして当時の面影を感じられることがとても嬉しい。
船の構造としては適さない大きな開口部。ですが車両を運ぶという使命を負った連絡船にとってはどうしても必要な設備。日本史上最悪の海難事故となってしまった洞爺丸事故。当時の船にはこの船尾部分に蓋がなく、そこから海水が入り込み沈没してしまいました。
その事故の教訓を受けて開発されたのが、この重厚な船尾扉。それ以来一度も事故を起こすことなく、最後の日まで人と物を安全に運び続けました。
更に下の階へと移動し、この船の心臓ともいえるエンジンルームへ。大型のディーゼルエンジンがずらりと並ぶ姿は、まさに圧巻のひと言。
それまで4時間半ほど掛かっていた青函航路ですが、津軽丸型と呼ばれるこの船では3時間50分にまで短縮されました。海の新幹線とも形容されたその速さは、この力強いエンジンによって支えられました。
その巨大な8基のエンジンを司る統括制御室。先ほどの操舵室が表の司令塔だとすれば、こちらはまさに縁の下の力持ち。ここでエンジンや電力といった運航に必要なエネルギーを監視・制御していました。
統括制御室の一角には、現役当時のままと思われる姿で残された掲示類や古い洗面台が。海の男たちの職場であったことを匂わせる気配に、この船がもう二度と動かないという事実が信じ難くなる。
多くの乗客を出迎え見送ったロビーから始まった、青函連絡船の記憶に触れる旅。海峡の女王と称されるほどの優美さをもった八甲田丸は、外観のみならずその内部にまで独特の美意識が詰まっている。
現役最後の姿を知りつつも乗船体験のない僕にとって、青函連絡船は未来永劫憧れることしか許されない存在。
一度は乗ってみたかった。でも本当は、乗れなくて良かったのかもしれない。もし乗っていたならば、もしこの船に思い出が詰まっていたとすれば。きっと僕は、引退後のその切なさに耐えられそうもない。
青森に来る度に楽しみにしている、八甲田丸との逢瀬の時。久々に海峡の女王の内側に触れ、切なさと温かさで胸がいっぱいになるのでした。
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