谷沢川合流点から程近く、23区内唯一の渓谷である等々力渓谷に到着。電車でのアクセスとは反対に、下流から上流へ散策していきます。
この等々力渓谷も国分寺崖線に位置しており、岩壁から流れ落ちる不動の滝という立派な滝があります。この不動の滝が落ちる音が轟いていた、ということから等々力の名が付いたそう。
岩壁をよく見ると、滝の部分だけではなく、全体から水が滴り落ちているのがわかります。苔の上を伝いながらきらきらと落ちる水滴を見ていると、ここが東京区部であることを忘れてしまいます。
等々力渓谷はまさに湧き水の宝庫。左岸右岸のいたるところから清水が染み出ており、大小の流れになって渓谷へと落ちてゆきます。遊歩道を堂々と横断する流れもあり、いつ行っても渓谷全体が潤っている印象を受けます。
鬱蒼とした森、そんな言葉がピッタリの風景。この頭上を環八が通っているとは思えません。逆を言えば、何も知らずに環八を通れば、まさか橋の下にこんな渓谷が広がっているとは誰も思わないでしょう。
まさに東京の自然は人工物と隣り合わせ。どこのスポットも、なぜかそこだけポツンと取り残されたように存在しています。ということは、開発しようと思えばすぐに壊せてしまう、ということ。これ以上東京をコンクリートの森にしないよう、ずっと守っていかなければなりません。
等々力渓谷の最上流部に掛かる、ゴルフ橋。東急大井町線の等々力駅からは、あの橋の手前を螺旋階段で下りてアクセスします。いわば等々力渓谷の表玄関。赤いアーチが印象的です。
こうやって深い渓谷と空へ伸びる濃い緑越しにアーチ橋を眺めていると、今にも小さな機関車が引っ張る森林鉄道でも走ってきそうな錯覚を覚えます。それほど緑が深い。23区唯一の渓谷は、渓谷の名に恥じぬ、立派な渓谷でした。
マイナスイオンを体全体に浴びてリフレッシュしたところで、再び谷沢川を下ります。多摩川へ注ぐ手前で丸子川と交差する部分があり、そこから丸子川沿いを下ります。
ここも昔は用水路として利用されたところ。住宅のすそを縫うようにして流れて行きます。この丸子川に沿ってしばらく走り、中原街道へと入り洗足池を目指します。
片側2車線の立派な中原街道沿いに突如現れる洗足池。周りの状況を見ると、なんでここに池があるの?と疑問に思ってしまうほど、まさにいきなり現れます。井の頭池や善福寺池とはまた違う、とっても開放的な雰囲気。宅地化された中で埋め立てを免れた、幸せな池です。
洗足池の周囲をゆっくり走っていると、こんなせせらぎに出会いました。洗足池の水源の一つとなる湧水が流れ込んでいます。流れる水は澄んでおり、これ程宅地化されても水が湧き続けていることに嬉しさを感じます。
池のほとりにはきれいなあやめが咲く場所があり、その間を木道が通っています。まさに都会のオアシス、風に揺れる花に子供の遊ぶ声、そんなのんびりとした空間がとても心地いい。
本日最後の目的地だった洗足池を離れ、帰路へと就きます。帰り道に選んだのは目黒川。中原街道を道なりに進んでいけば突き当たります。決してきれいな川ではありませんが、やはり川には水が必要。そこに水があれば植物も、動物も、そして人も集まってきます。
その目黒川を遡ると、玉川通りを越えた上流からは暗渠になってしまいます。ついに川の体をなさなくなってしまいました。それでもまだ地下には水が流れ、地上は人々の憩いの場所として利用されているだけ、幸せなのかもしれません。
先程の場所からすぐ上流のところで2つの川が合流します。北沢川と烏山川、今回は烏山川を進みます。民家の裏手を行く緑道は、まさに川の雰囲気そのもの。蓋がされる以前は、民家の裏手を静かに流れていたことでしょう。
今日一日、数多くの湧水と水が流れる風景を巡っていると、川や、池や、湧き水があるのが当たり前のように感じてしまいます。しかし、このように蓋をされ、見えなくなってしまった水の方が多い、というのが東京の現実です。
烏山川は、それでも緑道として整備され多くの方が通り、緑道に川の名前を残してもらっているだけ幸せなのかもしれません。
実際は、住宅街を流れていた小川や用水路は、下水道が完備される前には生活排水を垂れ流されるドブとして、そして汚くてどうしようも無くなってしまい、ついには蓋をされる。ひどいものは川ではなく、下水道として利用される。
そんな暗渠は名前なんてもちろん無くなり、車も走れない道路は民家にも背を向けられ寂しく横たわるしかありません。川であったという過去すら抹消されるように。
そんな殺された川が、区部にはそこら中にあります。街を歩けば、車止めのある細くて暗い湿った路地に出くわします。それは川の屍。そこが川であったことを知る世代が減っていく中で、川であったことすら忘れられていく。なんだか、かわいそうです。
こんなことを言っている僕だって、暗渠という存在を知る前は川に蓋をされるなんて想像すらしていませんでした。
一日を掛けきれいな水辺を巡り、最後に川の変わり果てた姿を見る、なんだかちょっと切ないサイクリングになってしまいました。
だからこそ、今日巡ることのできた水のある風景は無くしてはならないし、蓋をされる程汚してはいけない、そう強く実感することができました。水が見える、それは当たり前のようで当たり前ではない、大切なことなのです。
※僕が暗渠という存在を意識したのは、『加瀬竜哉さんのHP』を偶然見てから。小さい頃から川が好きで、ドライブ中でも川を渡るとはしゃいでいた僕としては、衝撃の内容でした。興味のある方はご覧になってみてください。
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