鶴の湯で迎える静かな朝。谷底に佇む宿にはまだ夜の名残が漂い、朝日が世界を照らすまではもう少し時間が掛かりそう。夜から朝へ。その移ろいを肌で感じようと、朝風呂へと向かうことに。
やはりここは日本の背骨、真っただ中。外へと出れば朝の清らかな冷気が頬を刺し、これから触れる温もりへの欲求が一気に増してゆくのを感じます。
日帰り客もまだ来る前、観光気分の宿泊客もまだ眠りの中。今の鶴の湯では貴重とも思える静かな環境での湯浴みは、ちょっとだけ早起きした者のみに許される本当の鶴の湯の姿なのかもしれない。
朝の静けさ漂う中での湯浴みを味わい、お腹もすいたところでお待ちかねの朝食の時間。朝も歴史深さを感じさせる本陣で頂きます。
指示された席につくと、お膳には美味しそうな品々がずらり。シャキシャキ感が美味しいわらびのお浸しに、手作りの味わいが嬉しい切り干しと天ぷらの煮物。豆腐は木綿でありながら固すぎず、丁度良い豆の凝縮感を味わえます。
そして今朝のメインは、岩魚の甘露煮。前回泊まった時も出てきましたが、もうこれさえあればほかほかのあきたこまちが何杯でもいけてしまう。頭からしっぽまで、しっかりほっくりと煮られた岩魚。少々濃い目の味付けの奥に閉じ込められた旨味が、ご飯に合わない訳がありません。
他にも風味の濃いとろろや具だくさんのお味噌汁をお供に、ご飯をおかわりして大満腹。心まで温かさに満たされ、本陣をあとにします。そしてそのまま、ちょっとした朝散歩へ。入口にある大きなかまくらへと入ってみることに。
中へと入れば、意外なほどに温かく、そして静か。暗い中から覗く外界は一面の銀に覆われ、雪に閉ざされる地方の子供の昔ながらの歓びに思いを馳せます。
部屋へと戻りパンパンのお腹を落ち着け、再びお風呂へ。チェックアウト間際の、日帰り客が来る直前。その一瞬の合間を狙い、穏やかな雰囲気漂う大きな露天で乳白の湯と戯れます。
そして禁断の、午前のビール。銀世界に輝く金星は、その黄金色の鮮烈な旨さを喉へと連れてきます。あぁ、いい。やっぱり僕は、飲兵衛だ。旅先での昼酒は、アルコール以上にその世界観が僕を酔わせてしまう。
幾度目かの湯浴みを愉しみ、昼食を。帳場での注文ですが、部屋付で出前してくれるのも連泊の嬉しいところ。今回は、前回日帰りで立ち寄った際にも食べた山芋そばを頼みました。
こちらの山芋そばは、いわゆる山かけとは一線を画すもの。しっかりと風味を感じる芋の千切りが、熱々のかけそばに載せられています。しゃきっとした食感と、つるりとした舌ざわり。これが太めの黒い田舎そばによく合い、つるつると一気に平らげてしまいました。
連泊という甘美な贅沢を支配する、だらりとした優雅な時間。お昼を食べてしまえば、あとは浸かって、飲んで、うたた寝するだけ。そんな怠惰な午後の愉しみにと開けたのは、由利本荘は齋彌酒造の醸す雪の茅舎純米吟醸。
僕の大好きな銘柄のひとつである、雪の茅舎。強烈な個性や特徴的な味わいを感じさせる訳でもないのに、飲むたびに、あぁ旨いとほっとする。きっとこの絶妙なバランスが、僕の好みにぴったり合っているのでしょう。
文字通り五臓六腑に染みわたるような酒を味わいつつ、心が欲すれば露天へと向かう。そんなことを飽きずに繰り返していると、気付けばもうあたりは真っ暗に。揺れる灯りが温もりをくれる灯篭を愛でつつ、今宵も夕食会場の本陣へと向かいます。
今夜もお膳には食欲をそそる山の幸がびっしりと。お刺身のにじますには滋味深い旨味が詰まり、ぜんまいの白和えや山うどの炒め煮といった山の湯宿の贅沢が地酒をより進めてくれる。
今宵も囲炉裏でじっくりと焼かれた岩魚は、甘めの味噌が塗られて田楽風に変身。これがまた淡白ながら旨さを凝縮した岩魚の身によく合い、口中に広がる味噌のコクが岩魚の旨さを昇華させるかのよう。
煮物は、鰊にごぼう、肉厚のしいたけ。にしんから染み出る独特の風味が野菜に絡み、山深い土地ならではの素朴な味付けが心身の奥へと沁みるよう。
旨い料理に地酒秀よしを傾ける、至極の時間。その夕餉を一層味わい深いものとするのが、やっぱりこの空間。江戸時代から重ねてきた時間が形となった本陣は、外観だけでなく室内からも鶴の湯の歴史が滲み出てくるよう。
味と空気に心酔していると、お次のお皿が運ばれてきます。ふたを開ければ、そこには秋田名物のきりたんぽ。漂う独特の香りに、久々に味わう羽後の味への期待が一気に膨らみます。
ごぼうに鶏肉、きのこに長ねぎ。そして絶対に外せない、秋田といえばのせり。これらが混然一体となった醤油汁は、僕の心の琴線を震わせる得も言われぬ深い味わい。一口ごとに、胸の奥へと沁み入るよう。
半殺しのご飯を焼いたきりたんぽは、表面は香ばしく中はもっちり。染みこみすぎず中がまだ白い程度の状態で食べるのが、僕の好きなきりたんぽの食べ方。つゆの旨味と米の甘味の競演に、これだけでも秋田まで来た甲斐があったというもの。
昨晩に引き続き、今夜もボリューム満点の鶴の湯の夕食。ここまでも大満足でしたが、更に冷たい稲庭うどんが運ばれてきました。秋田美人の肌を思わせる艶やかなうどんは、その独特な舌触りと強いコシが魅力。お腹いっぱいながらも、自ずとつるりと入ってしまいます。
自家製味噌のコクが旨い山の芋鍋と名物いぶりがっこ、そしてもちもち甘うまのあきたこまちで〆てもうお腹ははち切れんばかり。
やっぱりここのご飯は美味しい。山の恵みを色々な形で味わわせてくれる。味付けもさることながらそのバリエーションの豊かさに、連泊してよかったと今一度強く実感。
満たされた気持ちで歩く夜の鶴の湯。かまくらにもろうそくが灯され、その温かみのある柔らかな光が白い壁をオレンジに染めあげます。
静かな谷底に流れる、穏やかな夜。そんな時間を一層味わい深くするのが、土地の酒。今宵の友にと選んだのは、湯沢市の両関酒造が造る秋田の純米酒。お米の旨味、酸味、甘味のバランスがとれた、日本酒らしい味わいの純米酒。
全身を包む、乳白の濁り湯。湯気とともに立ち上る硫黄の香りに満たされつつ頬に感じる、奥羽の寒さ。やはり山の湯宿は冬がいい。そのことを確かめるべく、繰り返す湯浴み。鶴の湯での二晩目は、その夜空のように奥深く胸に沁み入るのでした。
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