甲府から身延線の未知なる轍に導かれること45分足らず、この旅の目的地である下部温泉駅に到着。やっぱり初めての地は、ワクワクする。それがずっと逢ってみたいと思っていたお湯となれば、その悦びもひとしお。
なんだろう。車窓でも感じたことですが、山感がすごい。標高が高いわけでもなく、山容の険しさを感じさせるでもなく。それでも何となく、圧や質量を感じさせる。
これまで訪れたところとは、また違った表情の山深さ。今年は本当に、自分の知らない景色にたくさん出逢えた。そんな一年の総括を巡らせつつ坂を登ってゆくと、温泉街の入口へ。
駅からのんびり歩くこと15分ちょっと、橋の袂にこれから2連泊お世話になるお宿を発見。下部には一人で泊まれる宿がいくつかある中で、今回は『元湯橋本屋』にお邪魔します。
明るくモダンなフロントでチェックインし、2階のお部屋へ。中へと入るとそこで出迎えてくれたのは、この季節ならではの贅沢である禁断のおこた。これから2泊、温泉とこたつの往復。この瞬間、僕の廃人化は確定した。
ぬくぬく必至の至福の空間にひとりニヤついていると、1ℓのペットボトルに用意された水を発見。湯上りに飲んでみると、舌から食道へと落ちるただならぬ気配。
ここ下部の湯は、浸かるのみならず飲泉にも適したもの。無色透明、無味無臭。口当たりよくするりと喉を通り、それでいて普通の水にはない質量のようなものが伝わってくる。
さっそく浴衣に着替え、お待ちかねのお湯との対面。下部温泉は、31℃程度という低い泉温が特長の湯。奥の大きい浴槽にはぬるい源泉が満たされ、手前の小さな浴槽にはまた別の熱い源泉が引かれています。
暖冬と言えども、やっぱり肌寒い。すぐにぬる湯に浸かる勇気はなかったため、まずは手前の浴槽に浸かり体の芯を温めます。
そしていよいよ、下部といえばのぬる湯へ。一瞬冷たいかな?と感じつつも、ゆっくりと、ゆっくりと肩まで浸かりじっと待つ。するとふとした瞬間、体を妙な感覚が包み込む。それは浮遊感のようでもあり、溶けゆくような一体感でもあり。
こころゆくまで不思議な浴感に揺蕩い、気が向いたらまた熱い湯へ。額にほんのり汗をかいたらぬる湯に戻りと、その心地よさに気づけば何往復もしてしまいます。
そして体内からも、下部の湯力を吸収できるのが嬉しいところ。大きな浴槽の一画にはきれいな源泉が落ちる湯口があり、居ながらにして飲泉を愉しむことも。
絶妙な心地よさの温冷交互浴に心酔し、早くも下部の湯に惚れてしまう。なぜこれまで、来なかったのだろう。あまりに今日の体調に合いすぎて、嬉しいを通り越してそんな後悔すら芽生えてくる。
心身の芯から、すっかりほぐされゆるりとだらける湯上りのひととき。フロントで瓶ビールをもらい、こたつに入ってプシュッと開ける。冷たい刺激を喉へと流せば、その刹那、空っぽになった体の隅々に幸せが行き渡る。
瓶ビールの余韻に抱かれ、こたつでうたた寝。そんな至極に流され、はっと目が覚めたら再び湯屋へ。不思議なことに、一度目よりも今回の方がさらにぬる湯が心地よく感じる。この無色透明の単純温泉には、一体何が込められているのだろう。
二度目の湯浴みを終える頃には、すっかり身もこころも頭もすっきりと。あぁ、お腹空いた。こんな心地よい空腹を感じるのも、もしかしたら久しぶりかもしれない。
そんなタイミングで、お待ちかねの夕食の時間に。何と嬉しいことに、お部屋食。2段のお膳で運ばれてきた品々がこたつに並べられ、ぬくぬくしながらのひとり宴の開幕です。
まずは前菜から。生ピーマンのひき肉のせは、苦みのないフレッシュなピーマンの瑞々しい味わいと肉の旨味が好相性。山梨の地酒七賢にどんぴしゃの善きつまみ。お芋や銀杏、むかごの素揚げに薫る滋味は秋の名残りを感じさせ、野菜の味わいを残したピクルスがまた旨い。
続いて、大好物の山女の塩焼きを。岩魚よりも柔らかく、より繊細な旨味を宿す上品な身。ほどける味わいを七賢で追いかければ、山の湯宿に来た甲斐があったと掛け値なしにそう思えてくる。
お隣の揚げ出しは、なすに舞茸、そして牡蠣。濃すぎず薄すぎずの塩梅で、素材やおだしの旨さがじゅわっと染み出します。鯛とまぐろのお刺身もおいしく、肉巻きは手作りならではの心を豊かにしてくれる家庭の味。
旨い品々片手に七賢をちびちびやっていると、お鍋がぐつぐつと良き塩梅に。豚と鱈、豆腐や野菜の入った塩鍋は、穏やかさを感じさせるじんわりとした優しい旨味。使われている鱈が塩鱈なのがまた堪らない。
そして何より驚いたのが、ご飯のおいしさ。下部鉱泉で炊いたというご飯はもっちもちの食感で、噛んでゆけばとめどなく甘味が溢れてきます。
ちょっとこれは、感動もの。お米がいいのか、鉱泉の効果なのか。いや、きっとその両方なのだろう。そんな理屈すらどうでもよく、肉巻きや柚子香る白菜漬けをおかずに、おひつの全てを平らげてしまいました。
いやぁ、おいしかった。手作りの温もりを感じさせる夕餉にお腹もこころも満たされ、ぱんぱんのお腹を抱えてこたつむり。
満腹が落ち着いたら湯屋へと向かい、ぬる湯に揺蕩いほぐされる。そんな贅沢な夜のお供にと選んだのは、北斗市は山梨銘醸の七賢なま生純米生酒。ここちよい甘酸っぱさの中にキレのある、水のきれいさを感じさせる魅力的な旨い酒。
こころゆくまで、お湯と酒に身を任せるという贅沢。いつもなら2本目も地酒でといくところですが、こんなことができてしまうのが甲州路のいいところ。続いて、勝沼は森田甲州ワイナリーが醸すシャンモリ遅摘み完熟甘口ロゼを開けてみることに。
完熟甘口ロゼ、か。自分で買っておきながら、あまり飲まないタイプのワインにどうなんだろ?と思いつつひと口。うわぁ、旨ぇやつだこれ。名の通り甘味はあるものの、しっかりと発酵したワインの風味やロゼらしい軽やかな渋みが印象的。
これまで、ずっと気になりつつも来る機会に恵まれなかった下部温泉。不思議なぬる湯に何度も揺蕩い、湯上りには下部の湯で水分補給。そんなことを繰り返していると、到着から半日だというのに自分の内側に感じる明らかな変化が。
無色透明、無味無臭。さらりさっぱり、体に負担のかからぬやさしい湯でありながら、こんなにてきめんに効くなんて。湯屋から戻るごとに軽くなる心身に、はやくも信玄の隠し湯の底力を感じ始めるのでした。
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