春まだ浅い花山の地で迎える静かな朝。障子から漏れる明るさに目覚め外を見てみれば、春を感じさせる青空が。
今日は天気が良さそうだ。空色からそんな爽快さを受け取り、軽い足取りで朝風呂へ。
昨日は宿泊客が男性のみだったため浴場の入れ替えはありませんでしたが、今朝はこちらの小さ目の浴場が男湯に。とはいっても普通の大浴場ほどはある大きさの浴槽が設けられ、清らかな温湯の源泉が惜しげもなく掛け流されています。
ゆったりじっくり体の芯から温められ、湯上りにごろりと汗を落ち着かせたところで朝食の時間。焼鮭や熱々の湯豆腐、納豆に温泉玉子と、ほっとするような和の味わいに満たされます。
食後にフリードリンクのカフェオレでひと息つき、ひとっ風呂浴びたところで陽気に誘われお散歩へ。すぐ裏手の山には、斜面に鎮座する小さな祠。この湯神社が、あの貴重な木造宿を護ってくれたに違いない。
昨日までの肌寒さはどこへやら、今日は本当に暖かい。陽射しの温もりを肌に感じつつ歩いてゆくと、山肌からさらさらと落ちる清冽な水。こうして確実に、雪解けが進んでゆく。そしてあと1か月もすれば、この地も花の季節を迎えることだろう。
佐藤旅館からのんびり歩くこと3分ほど、かつて仙台藩と秋田藩を結んだ街道の要衝であった寒湯番所跡へ。ちなみに、寒湯と書いてぬるゆ。以前は湯温が低くこの字が使われていましたが、明治時代の栗駒山火山活動活発化により湯温が上昇したことから現在の温湯と改められたそう。
明治2年に廃止されるまで、200年以上もの長きに渡り仙台藩と秋田藩の境で睨みを利かせていた寒湯番所。釘を使わず建てられた、総けやき造りの四脚門。その重厚感から、番所の表門として刻んできた歴史が滲むよう。
その奥には、大屋根が威容を誇るお屋敷が。これは関所守が居住していた役宅で、四脚門とともに安政時代に建てられたものだそう。残念ながら、訪れたときは冬季休館中。これはまた、次へと繋がる宿題だな。
江戸時代の関所の姿を今へと伝える貴重な遺構に別れを告げ、再訪の口実を胸へとしまい宿へと戻ります。高く積もる残雪の先には、山に挟まれ流れる迫川。上流域のこの辺りでは一迫川と呼ばれ、下流で二迫川と三迫川を合わせ北上川へと注ぎます。
宿へと近づくと、先ほどの四脚門に似た建物が。ここは以前露天風呂だった場所で、今でも浴槽の姿が見て取れます。あの優しい湯に浸かり愛でる、新緑や紅葉、銀世界。想像するだけで、いつかは復活してくれたらと気楽な宿泊者の僕は願ってしまう。
かつての街道筋に沿い、旅館の中庭へ。僕がこの宿を知ったときは、木枠のガラス窓が連なる古風な佇まいだった旧館。その後震災からの復興により外壁が設けられ、新たな姿に生まれ変わりました。
雪解け後まもないためか、ふかふかとした足元に注意しつつちょっとばかり先へ。枯色の地面には、仲良くそろって顔を出すふきのとう。春だなぁ、かわいいなぁ。そう思いつつ、旨そうだなぁと思う僕は欲深い。
短いながらも、いいさんぽだった。一気に春めいた陽気に滲んだ汗を流すべく、誰もいない湯屋へ。湯けむり越しに広がる陽射しの明るさ、とぽとぽと響く湯の落ちる音。そんな贅沢を、優しい湯に抱かれ独り占め。これだから、連泊はやめられない。
花山に満ちる春風と温湯のぬくもりに芯から解され、ほくほくとした心もちで喉へと流す冷たい金星。これを至福と言わずして何と言おう。
爽快な苦みの余韻に揺蕩い、こたつに潜りごろりと放心。あぁ、溶けてしまう。こんな怠惰に浸かっていては、あっという間に廃人になってしまう。
やっぱり僕には、こんな時間が必要だ。微睡みという甘美な誘惑に足を踏み入れつつ、ぼんやり見上げる飴色の天井。この瞬間を味わいたいがために、僕は古き良き木造の湯宿を求めてしまう。
12時台に到着し、それからのんびり3泊できる。そんなことを思っていたのが、つい先ほどのことのよう。本当に愉しい時間というものは、あっという間に過ぎ去ってしまう。電気も点けず過ごす部屋には夜の気配が忍び込み、この宿での残された時間というものを否応なしに知らせてくる。
豊かな時間は、秒だよ、秒。3泊もしておいて何という贅沢だと言われそうですが、それが正直な実感なのだから仕方がない。迎えた最後の晩餐を、今宵も栗原の地酒とともに愉しむことに。
今夜の選べるお鍋は、特製もつ煮込み。たっぷりのもつは柔らかく煮込まれ、ほんのりにんにくの効いた味噌のコク深い味わいが堪らない。れんこんとじゃがいもの揚げ出しは素材のおいしさを活かすほくほくとした旨さで、今夜は二合頼んで大正解。
続いて選べる焼き物、今宵は岩魚のホイル焼き。ほっくりとした塩焼きや田楽とはまた違う、ふんわりジューシーな食感に。ほどよい甘さのトマトソースやバジルが淡白な身を彩り、新たな岩魚の旨さをまざまざと見せつけられる。
この3泊、本当に色々な形で花山の岩魚を味わった。その集大成、〆にと運ばれてきたのは岩魚の押し寿司。刺身や漬けよりも、より凝縮感の増した白身の食感。ごまやわさびが香りを添え、押し寿司ならではの一体感ある旨さに満たされます。
最後の晩餐をしかと味わい、大満足で戻る自室。何泊しても、あっという間。すっかりここに居ることがなじんでしまった空間で、残された時間を噛みしめる。
そんな最後の夜のお供にと開けるのは、村田町は大沼酒造店が醸す乾坤一純米酒。含めば広がる、甘酸っぱく芳醇な味わい。宮城に来たら呑みたい、お気に入りの酒。
宮城の酒の旨さにほろりと酔い、気が向いたら優しいいで湯に逢いにゆく。そんな豊かな夜を彩る二本目は、加美町の中勇酒造店、天上夢幻純米酒。とろりとした口当たり、広がる豊かな米の甘味や酸味。東北六県、酒処。この旅で久々に宮城の酒としっかり遊び、その味わいに改めて惚れてしまう。
正直なことを言いましょう。初めて訪れる宿、そして内湯のみ。2泊なら何とも思わないが、3泊となると僕としてはちょっとばかりの賭けの要素が拭えなかった。でもそんなことは、杞憂に終わった。
こんなにも、穏やかな豊かさに満たされ最後の夜を迎えるとは。若き日の僕の心を射止めた宿、それも一旦は諦めざるを得ない状況からの訪問が叶ったという背景があるのは確か。でもそれ以上に、この素直なお湯や宿全体に流れる温かみがそう思わせるのだろう。
滞在中幾度となく浸かったこの大岩風呂も、これが最後の一浴か。連泊のもたらす若干の感傷に染まりつつ、ゆらゆらと揺れる湯面を見つめるのでした。
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