屋島で瀬戸内の鮮烈な青さを全身に受け取り、そろそろ下山することに。帰りも『ことでんバス』の屋島山上シャトルバスに乗車します。

屋島山上から坂を下ることあっという間の約6分、ひとつ目のバス停である四國村で下車。ここにおいしいうどん屋さんがあるというので、ちょっと遅めの昼食をとることに。

今回お邪魔したのは、『ざいごうどん本家わら家』。威風堂々たる古民家は、香川や徳島の農村から移築されたもの。太い梁越しに茅葺の構造がそのまま見て取れ、この雰囲気のなかで食事ができること自体うれしい。

釜揚げもおいしそうだし、生じょうゆも捨てがたい。でもやっぱりいまの気分はこれかな。そう悩みつつ頼んだのは、ぶっかけうどんの冷。重厚な店内で待つことしばし、お待ちかねの艶肌美人が運ばれてきます。
青ねぎや天かす、おろしにしょうがを好みの分量のせ、おつゆをかけていざひと口。うわぁ、ちょっとここのうどん、本気ですごいや。
見てのとおりの太いうどんは、2本も口に入ればぱつぱつになるほどのボリューム感。噛めばしっかりとした弾力があり、もっちもっちもっちと存分に咀嚼したくなる魅惑の歯応え。しかし決して硬いわけではなく、この食感を表現できる力を残念ながら僕は持ち合わせてはいない。
そして驚くのが、そのなめらかさ。ここまで太いと粉っぽさも生まれそうだが、そんなものはどこにも見当たらない。しっかりとしたコシと弾力がありつつ、芯までつるりとしっかり茹だっているという感覚。おつゆもこの太さにはこれが最適解と思える塩梅で、小麦の風味や甘さを邪魔せず活かすだし感のある旨さ。
ちょっと本当に、香川のうどんはいったい何がどうなっているんだ。すべすべ艶々ながら、食べごたえのあるうどん。噛むごとに脳内麻薬物質が出てくるかのような旨さを知ってしまうと、次もそのまた次もとこの地を欲してしまうに決まっている。

本場讃岐うどんの破壊力たるや。唯一無二の力強い旨さに心酔し、せっかくここまで来たのだからと併設された『四国村ミウゼアム』も見学してゆくことに。

まずはじめに、結論から言いましょう。ここは、そんな軽い気持ちで訪れるにはあまりに素晴らしすぎた。小一時間見て栗林公園に行こうと思っていましたが、結局西日が街を染めるまで滞在してしまった。

起伏にとんだ村内ですが、順路通りにゆけばひと筆書きに回ることが。入村口からは坂を登るルートもありますが、ぜひ試したいのが再現された祖谷のかずら橋を渡るルート。4年に1度架け替えるそうですが、踏板が空いている部分もあり本家に負けず劣らず怖いかも。

はやくもこの村のもつ世界観に引き込まれていると、まず出迎えるのが小豆島から移築された農村歌舞伎舞台。江戸時代末期の建築だそうで、現在もイベントや節句飾りの舞台として使われています。

客席として使われる石垣を登ってゆくと、うつくしいなまこ壁をもつ土蔵が。これは江戸時代後期に建てられたという、丸亀藩の御用蔵。かつては米蔵として使用されていたそう。

内部の壁には、柱の間にこまかく配置された丸太が。これは、米俵を積み重ねても壁が傷まないようにという工夫だそう。昼なお薄暗い空間には、四国村についての展示がなされています。

米蔵ならではの独特な空間美に触れ外に出れば、ずらりと並ぶ鳴門伝統の大谷焼。この巨大な甕は、これまた阿波特産の藍染に使用されていたものだそう。

順路に沿ってゆくと、小径を護るように連なる土塀が。これは猪垣といい、猪や鹿などから畑を守るための垣根。これは小豆島のものを再現したもので、この地域では松葉を混ぜ込んだ粘土で造られているのだそう。

先へと進めば、分厚い茅葺と土壁の風合いが味わい深い古民家が。江戸時代の後期に建てられたこの山下家住宅は、東讃岐の農村から移築されたもの。

内部は土間に板張りの一間、そして寝室一室と素朴なもの。往時の典型的な農家の造りである周囲八間(ぐるりはちけん)と呼ばれるもので、ここで大家族が寝食を共にしたそう。

見上げれば、見事に組まれた茅葺屋根。木を縄で結び、そこに茅を葺く。日本の住居が、いかに自然に手に入るものでできていたか。人生の大半をコンクリートの箱で過ごしてきた僕は、古くからの人々の知恵にいつも圧倒されてしまう。

建物の半分は床張りの住空間に、残りの半分は作業場として広々とした土間が。その一画には板の間に接するようにかまどが設けられており、ここで家族みんなの分の煮炊きをしていたのでしょう。

その隣には、徳島は美馬から移築された大正時代築の小さな建物。左はトイレ、右は五右衛門風呂となっています。

瓦屋根に煉瓦の土台、陶管の煙突といった独特の取り合わせに、この時代に様々な素材が民衆化していったことが感じられる。

さらに登ってゆくと、茅葺屋根に囲まれた石畳広場へ。そこに置かれているのは、大阪城築城の際に小豆島で切り出されるもそのまま使われることのなかった残石。大きな石の肌には、切り出した際の跡が残されています。

一見木造のように見えるこの蔵は、愛媛は久万高原にあったもの。土蔵の上に置かれた屋根は火災で燃えても本体が残るようにとの工夫だそうで、外壁を覆う木の板も取り壊すことにより延焼を防ぐ役目があるそう。

その隣に建つのは、同じく愛媛の内子町からやってきた江戸時代中期築の河野家住宅。

この家では和紙を漉いていたようで、土間にはその原料であるこうぞやみつまたを蒸すための大釜が。

土間に茶の間と座敷という間取りで、竹のすのこでできた床にむしろが敷かれています。寒さ厳しい山間部のため各部屋に囲炉裏が切られていますが、床がすのこではそれは厳しい冬であったことでしょう。

次へ進もうと振り返れば、目に飛び込む特徴的な建物。僕は最初、これはアート作品か何かだと思ってしまった。そう思わせるほど、絵本の中から飛び出してきたような独特な風貌をしている。

でもこれは、明治初期生まれというれっきとした歴史をもつ建物。このとんがり屋根の丸い小屋は、坂出から移築されたもの。内部はこれまで目にしてきた茅葺と同様の素材ながら、見慣れぬ円形により何ともいえぬエキゾチックな雰囲気が。

さきほどの建物は砂糖しめ小屋と呼ばれ、さとうきびを絞るための小屋。そこで絞られた生汁はこの釜屋で三度にわたり煮詰められ、純度の高い白砂糖へと精製。

その向かいにも、さらにひと回り大きな砂糖しめ小屋が。こちらも坂出にあったものだそうで、さらに古く江戸時代末期の建築だそう。

なぜこんな不思議な形に建てられているのか。その答えは小屋の内部に。中央に置かれるのは、しめぐるまという石臼。そこには腕木が取り付けられ、それを牛が曳いて歩くために円形となったそう。

そんな特徴的な砂糖しめ小屋にも、いわゆる普通の方形のものが。このような形状の小屋は地元の有力者が建てたもので、ここに小作人を集めて砂糖を製造。その小作人が独立した際に組み立て・解体の容易な円形の仮設の小屋が生まれ、それが常設化しあのような形状となったそう。

本当に、本当におもしろい。これだから、旅することをやめられない。ふと思いつきで今日ここに来なければ、日本にこんな文化があったなんてきっと死ぬまで知らずにいたことだろう。

自分としては、まだまだ未知の連続である四国。各地から集められた伝統的な建物に感嘆しつつ進んでゆくと、今度は石積みの猪垣が。これは、徳島は美馬のものを再現。垣根で動物の侵入を防ぐとともに、落とし穴で生け捕りにしたものを食糧にしたそう。

山での人々の暮らしに思いを馳せつつ、さらに上へ。豊かな緑のなか、ひっそりと佇む小さなお堂。正面に祭壇がある以外は、三方壁のない茶堂と呼ばれる建物。村人の信仰の場としてのほか通行人やお遍路さんの休息の場としても利用され、かつては四国の広い範囲に設けられていたそう。

竹林のそよぐ小径を抜け、洋風建築のならぶ一画へ。まず出迎えるのは、四国の対岸である広島は大久野島に建てられていた白亜の灯台。明治27年の初点から100年近くもの間、激動の海を照らしてきました。

その隣に建つのは、淡路島の北端に建っていた江埼灯台退息所。阪神淡路大震災により被害を受けたため、移築復原のためこの地へとやってきました。

震源地のすぐ近くに位置したため、敷地内には大きな地殻変動があったそう。ですが灯台自体はそれを乗り越え、いまなお明石海峡を行く船の安全を見守りつづけています。

江戸が終わってたった4年、日本で8番目の洋式灯台として誕生した江埼灯台。当時は灯台守を務めるのも外国人だったことから、その宿舎である退息所も洋風の室内となっています。

翌年の明治5年に初点した、坂出の鍋島灯台。退息所は明治6年に竣工し、昭和30年まで80年以上にもわたり宿舎として使われつづけたそう。

こちらも外国人灯台守向けの宿舎として建てられましたが、洋風のインテリアにどことなく和を感じさせる木の天井が印象的。

時代は下り、明治36年に建てられた松山のクダコ島灯台退息所。さきほどの2棟は花崗岩の石積みで造られていますが、こちらは煉瓦造りのモルタル仕上げ。意匠もぐっと簡素化されています。

このころには灯台守も日本人になっていたようで、押し入れ付きの和室といった和の間取りに。慣れ親しんだ和室のほうが暮らしやすいという面もあるかと思うが、室内もだいぶ質素になった感じがする。

まあ、外国から招いた技師とでは待遇の差はあるか。そんなことを思いつつさらに隣を見れば、これまたモルタルの外壁をもつ別棟が。

この建物は風呂場と倉庫として使われていたそうで、なかには煉瓦積みの五右衛門風呂が残されています。通信手段は無線のみ、上下水道もなかったであろう過酷な地で海の安全を護りつづけた灯台守。きっとここは、そんな勤務のなかでわずかに休息を得られる場だったのだろう。
ふと立ち寄ってみようと、軽い気持ちで訪れた四国村ミウゼアム。想像をはるかに超える濃密さで、ここまできてようやく半分。これはうれしい大誤算。次はどんな建物が現れるのかと、こころを躍らせ先へと進みます。



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