日が暮れるにつれ、涼やかな風が流れはじめる土手町通り。まだかまだかと、首を長くして待つ人々。遠くから響きはじめた太鼓の音、徐々に徐々にと近づいてくるパトランプ。津軽の熱い夜が、いよいよはじまる。
だん、だだんだんだん。ねぷた囃子の独特なリズムを刻む、津軽情っ張大太鼓。その腹へと響く重厚な音色に、はやくも胸の奥深くが熱を帯びる。
日本一のりんごの産地である青森県。その木がこの地にもたらされたのは、今から150年前。それ以来厳しい環境を乗り越え、今となっては県を代表する名産品としてその名を全国に轟かせています。
植栽150周年を迎えた青森りんご。その愛を感じるねぷたの後に続く、粛々と歩く隊列。お囃子に合わせて発するやーやぁどぉーの掛け声、それとともに高く掲げる手持ちの灯篭。静かなる熱さ。その深い情緒こそが、弘前ねぷたの味だと僕は思う。
人々の放つ内なる熱気の後には、夜空に色彩を放つねぷたたち。大きいねぷたはあとから。その統制の取れた行列は、凛とした気高さのようなものを感じさせる。
鏡絵一面に施された、緻密な色彩美。その鮮烈さが灯りによって押し出され、見る者のこころを灼いてゆく。
迫力に満ちた鏡絵から一変し、独特な世界観に包まれる見送り絵。表裏一体。この情緒的な対比が、祭りに一層深みをあたえる。
競い合うようにして、その個性を光らせる幾多ものねぷた。一枚の和紙に宿された人々の想いが、津軽の夜を染めてゆく。
短い津軽の夏の到来を歓び、去る夏を儚む。鏡絵と見送り絵に込められた叙情的な意味合いに、胸を震わせずにはいられない。
ただただうつくしいだけではなく、さまざまな表情を魅せてくれるねぷた。夏の夜を涼しくさせるような妖しさに、引き込まれるようにして見入ってしまう。
平面に命を宿す扇ねぷた、その後ろには躍動感あふれる組ねぷた。静と動、緩急織り交ぜた隊列が、もっともっとと見る者のこころを掴んでゆく。
目と鼻の先を、くるくると回りながらかすめてゆく巨大なねぷた。この距離感の近さも、弘前ねぷたの魅力のひとつ。
迫りくる灯りの熱量に気圧されつつ、去りゆく姿を見送る。一面に描かれるのは、空舞う鳳凰の艶やかさ。その幽玄な世界観に、ただただ心酔するばかり。
眼光鋭く、ねぷたを率いる為信公。津軽のお殿様が拓いた城下町、そこに藩政時代から遺されてきた火祭り。時代は変われど受け継がれてゆくこの熱さを、きっと悦んで見ていることだろう。
祭りが進むにつれ、繰り出されるねぷたも大きさを増してゆく。見上げれば、首が痛くなるほどのその高さ。手の届く距離で放たれる漲りを、今夏の記憶として灼きつけたい。
13年前、一瞬にして僕のこころを射抜いたねぷたの滾り。津軽藩ねぷた村での感動が忘れられず、2カ月もしないうちに衝動的にこの街へと舞い戻った。
そこで目の当たりにしたのは、本物の祭りのみがもつ確かな熱量。31歳にして、自分の未知なる部分がじゃわめぐのを感じた。
繰り広げられる色彩の洪水もさることながら、お囃子や掛け声により醸し出される得も言われぬ情緒。単なるお祭り騒ぎではない、弘前ねぷたのもつ趣き深さ。言語化できぬその魔力に、もうすっかり虜になってしまった。
弘前ねぷたは、地元の人々による地元のためのお祭り。ですがいくつかの団体では観光客の自由参加も受け入れており、いつかはねぷたとともに歩いてみたいとの想いも。見るか、曳くか。そのせめぎ合いに、毎年頭を悩ませる。
状況が許すならば2泊するようにしているが、これはもう弘前に3泊するしかないか。見て、曳いて、そして見て夏を〆る。そんな善からぬ妄想が、来夏への野望として熱を帯びてゆく。
10年間の修復を終え、端整に積みなおされた弘前城の石垣。長きにわたる工事の終了を祝うかのように、夏の夜空に咲き乱れる満開の桜。
細部にまで美意識が宿された見事な鏡絵。勇壮でありながら、緻密で繊細。二次元に封じ込められた臨場感が、灯りによって踊りだす。
津軽の夜空を焦がす、色彩の放つ圧。その輝きをより一層印象深いものとする、太鼓の響き。この圧倒的な迫力は、実際に対峙してこそ味わえる特別なもの。
妖艶な美女を護るかのように、睨みをきかせる唐獅子。その力強い姿に、思わず息を吞む。
深みを増してゆく夜の濃さ、その濃紺にくっきりと浮かびあがる眩い色彩。和紙へと託されたあまりの鮮烈さが、照らされることにより質量をもって闇へと放たれる。
網膜を通してこころの深い部分までをも染める鮮やかさ、その背後を彩るのは幽玄の世界。異なる顔をあわせ持つ独特な世界観こそが、扇ねぷたのもつ最大の魅力。
今にも飛び出しそうなほど、迫力をもって描かれる猛々しい武者。髪やひげの動きによりもたらされる躍動感、射すくめるような眼力の強さ。命の灯された勇壮な鏡絵が、津軽の夜を焦がしてゆく。
気炎万丈。夜空を灼くように燃え盛る炎が、この祭りにかける人々の内なる情熱を表すよう。
次から次へと、絶え間なく押し寄せる色彩の波。それぞれのねぷたの放つ、唯一無二の世界観。その応酬に、時間も忘れて引き込まれてゆく。
虫取りに肝試し、花火のあがる夏祭り。小学校のねぷたには、そんな懐かしさを覚える夏の楽しみが一面に。
ビルの3階をも超える巨大な組ねぷたがやってきたかと思えば、そこに再現されるのは目を見張るような独特な世界。メドゥーサを題材にした和洋折衷の妖艶な姿に、また新たなねぷたの魅力を思い知る。
その背中に描かれるのは、満天の星。津軽の夜に瞬くギリシャの輝きに、言葉をなくしただただ息を吞む。
次はどんな団体が来るのだろう。そう楽しみに待っていると、桃や大根のかわいい灯籠を掲げる一団が。
その後からは、子どもたちに曳かれやってくる組ねぷた。この子供人形ねぷたは去年から参加し、今年2年目を迎えたそう。こうしてまた、次の世代へと弘前の伝統が受け継がれていくのでしょう。
そしてついに、今宵最後となる一団が。長い時間をかけて繰り広げられてきためくるめく光の洪水も、残すところあとわずか。
今年も無事に、弘前の夏に逢うことができた。二晩にわたり浴びてきた、津軽の熱い夜。まもなくそれが、終わってしまう。一年間待ちわびた僕の夏が、もうすぐ終わりを迎える。
翼を広げ、漆黒の夜空へと飛びたつ鳳凰。その煌めきはあまりにもうつくしく、それでいてこの夏の夜の夢を昇華させてしまうようで。
そしてついに姿を現した、本日終了の宣告。終わった。僕の夏が、終わってしまった。この四文字に、切なくも温かい万感の想いが溢れだす。
待ちわびた夏の到来を心から歓び、その儚さを惜しみつつ行く姿を見送る。こうしてねぷたに通うようになり、僕にもそんな感性が身についてしまったようだ。
祭りのあと。こうして通う以上、毎年避けては通れぬこの寂寞たる瞬間。でもそれは、それだけ津軽の夏に満たされたという揺るぎない証。寂しい。このうえなく寂しい。しかしその寂しさは、決して負のものではないことを僕は知っている。
土手町の運行を終え、それぞれの町へと帰るねぷたのあとを追う。僕の夏が終わってゆく。その名残惜しさを胸へと刻み、それを原動力に来夏へと向けまた歩いてゆこう。
八重山に始まり、津軽に終わる僕の夏。それをこうして毎年毎年味わうことができている。もうここまで来れば、憧れから確信へ。だから大丈夫。また来年かならず逢える。
善き夏だった。そんな想いに満たされ、見つめるねぷた。今年も本当に、ありがとう。抱えきれぬ感謝を胸に、去りゆく灯りをひとり静かに見送るのでした。
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