3月上旬、春の陽射しに溢れる新宿駅。先月も旅したばかりだというのに、再び僕は信州へと旅に出る。頻繁過ぎやしないか。いや、それでもいい。行けるときに旅しておかないと後悔することを、僕は知っているから。
今の職場の勤務には2パターンあり、連休があるサイクルと連休のないものが。これまでの駅員人生、大半が後者だった。そしてまた、もうすぐ連休なしに戻ってしまう。その前に、最後の旅を愉しんでおきたい。
代わりを見つけないとなかなか休めない職場。年休を取らずとも2泊3日の旅に行ける最後のチャンスを逃すまいと決めた、今回の旅。そんな旅の幕開けを祝うべく、発車前からいけない金星を開けてしまおう。
ホームを行き交う人々を眺めつつ飲む、禁断の昼ビール。そのお供にと選んだのは、両国国技館名物のやきとり。最近ではJRの駅弁屋で目にする機会が多く、ずっと気になっていたため買ってみました。
ふたを開けると、正肉3本とつくね2本といった結構なボリューム。冷めていても肉質はしっとりとしており、単体でもビールの供としてもどちらでもおいしく味わえるちょうど良い塩梅のタレが旨い。
オレンジ色の中央線に乗るサラリーマンを横目に味わう、やきとりとビール。一昼夜勤務に耐えた者のみが味わえる贅沢を噛みしめていると、あずさ号は定刻に発車。ポイントを渡りつつゆっくりと進み、ビルに埋もれた新宿に別れを告げます。
今年の東京は、暖かくなるのが早かった。3月上旬とはいえすでに陽射しは春らしさに満ち、吹く風もだいぶ温むように。そんな春景色に染まる、今日の車窓。快晴の空色を映す多摩川の青さに、心はどんどんと解放されてゆく。
気持ちの良い旅立ちだな・・・。春めく車窓にビールも進み、飲み干したところで駅弁を開けることに。今回選んだのは、JR東日本クロスステーションが調製する田中屋復刻鳥めし。66年前に販売が開始されたという、新宿駅名物の駅弁を復刻したものだそう。
ふたを開ければ、これ以上ないというほどの王道感。そぼろご飯、丸茄子漬、菜の花、みかんのシラップ漬け、以上。今でこそ花盛りの駅弁事情ですが、子供の頃の駅弁ってこんな感じか幕の内ばかりだった気がする。
辛うじて昭和時代を記憶に残す僕にとって、古き良き記憶を呼び覚ますこの見た目。期待しつつひと口頬張れば、甘辛い鶏そぼろとほんのりと優しい風味の漂う玉子の好相性。見た目を裏切らない素朴な旨さに、ひとりでに頬が綻んでしまう。
それでいて昔の駅弁のように味が濃すぎるということはなく、ご飯も現代ならではのふっくらもっちりとした食感。昔懐かしさを感じさせる味を現代版へと進化させたおいしさに、ひと口、またひと口と箸が進みます。
素朴でおいしい鳥めしに舌鼓を打っていると、列車は高尾を過ぎ一気に山深さを増す車窓。甲州街道や中央道、川と絡み合いつつ山へと挑む険しい鉄路を、あずさ号は器用に車体を傾け駆け抜けます。
僕の生まれた街、そして今住む街を走る中央線。その延長線上にあるとは思えぬ山岳路線に揺られていると、視界は一気に開け甲府盆地へと到達。あまりにもうつくしいこの展望に、思わずため息が漏れてしまう。
これまでの険しさとは一変し、ぽっかりと山間に広がる甲府盆地の縁を大きく蛇行しつつ下ってゆく中央本線。進むごとに視座が変わり、目まぐるしく変遷する車窓から目が離せない。ついに盆地の底へとたどり着いたかと思えば、ぶどう畑の先に頭をみせる富士の嶺。
甲府を過ぎ、再び盆地の縁へと挑み始めるあずさ号。じわりじわりと標高を上げる車窓には、春の青さに染まるうつくしい富士山の姿が。
胸のすくような青さに溢れる今日の車窓。春の柔らかさを感じさせる青い空、その穏やかな色味に染まる南アルプス。青の世界に咲く満開の梅が、春の風をこころへと届けてくれるよう。
松本に向かって左側、D席が僕の好きなあずさの席。甲府盆地の展望や富士山、南アルプスといった雄大な景色を楽しめます。ただ、反対側の八ヶ岳は見えないんだよな。そう思っていたところ、大きくカーブを描くところでその姿を発見し、なんとなくちょっと得した気分に。
青く染まる山並みを愉しんでいると、列車は諏訪盆地へと抜け車窓には煌めく諏訪湖の姿が。去年訪れた、諏訪の街。こうして列車から眺める景色に想い出が伴ってゆく瞬間は、旅を趣味にもつ者としてのこの上ない歓び。
本当に、今日の車窓は春過ぎる。物心ついたころからの憧れである、特別急行あずさ号。その名門特急に揺られて望む車窓の優美さに、あっという間にここまで来てしまった。
ここまでは、僕の知っている中央本線。そしてこれから目指すは、中央本線のさらに先に待つ木曽路。
生まれてから今に至るまで、縁を感じずにはいられないこの路線。日常と繋がる鉄路の先には、一体どんな旅路が待っているのだろうか。まだ見ぬいつもの先への期待を抱き、陽射しに溢れるこの展望を胸いっぱいに吸い込むのでした。
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