車窓に流れる東北の豊かな田園を愛でつつ揺られること3時間5分、やまびこ号は新花巻に到着。宮沢賢治のふるさとである花巻、駅前では銀河鉄道を思わせるオブジェが旅人を出迎えます。
駅前のお土産屋さんでこれから過ごす二夜の供を仕入れていると、ちょうど良き時間に。駅前のロータリーから、宿泊者は無料で利用できる花巻南温泉峡シャトルバスに乗車します。
新花巻駅から途中在来線の花巻駅を経由し、いで湯の連なる魅惑の地へ。市街地を抜け、一面の田園の中を山裾目指し走るバス。この道の先には、あの湯この湯、想い出の色々が詰まっている。
松倉、志戸平、渡りと温泉場をつなぎ、バスは江戸時代の湯治場風情を色濃く残す大沢温泉へ。ここは、自分的節目に訪れてきた大切な大切な想い出の宿。今回は車窓から見送るだけとなった湯治屋の姿に、浮気してしまったようなちょっとばかりの申し訳なさが。
そんな大沢温泉に別れを告げ、もうひとつの想い出の宿である藤三旅館へと至る手前。新花巻から50分ほど走ったバスは県道を右折し、今回の目的地である『山の神温泉優香苑』に到着。(写真は翌日に撮影)
広々としたロビーでチェックインし、いよいよこれから2泊を過ごす僕の城へ。玄関を入り繊細な組子細工の施された引き戸を開ければ、そこに広がるのは木の温もり満ちるたおやかな空間。折り上げ格天井が全体を柔らかく包み込む世界観に、思わず見とれてしまう。
お部屋おまかせのプランで予約しましたが、今回用意されたのは純和風の和室と広々としたベッドルームの続く二間のお部屋。普段和洋室に泊まる機会はあまりありませんが、大きな窓と木の温かみが何とも贅沢な気分にさせてくれます。
ぐるりと大きくとられた窓を染めるのは、一面に広がる若葉の緑。寒い季節を乗り越えたからこその瑞々しさ、東北という地の持つ生命力の豊かさに改めて心を打たれてしまう。
立派なお部屋と力漲る新緑に圧倒されつつも、早速浴衣に着替えて大浴場へ。優香苑に設けられた2つの浴場のうち、まずは圧巻の広さを誇るとよさわ乃湯へと向かいます。
脱衣所から浴室への扉を開けると、すぐさま鼻をくすぐる硫黄の香り。あれ?鉛とも大沢ともなんか違うぞ?そう期待しつつ体を流し、いよいよ露天風呂とのご対面。
外へと出た途端、目に飛び込む文字通りの巨大な露天風呂。男女合わせて50畳ほどもあるという露天は、もうそれは浴槽というより池とも言いたくなるようなスケール感。そこに源泉が惜しげもなく掛け流されているのだから、贅沢以外の何物でもない。
広々とした湯船、眼前に広がる豊かな新緑。その視覚的刺激に意識がいきがちですが、それより驚いたのは魅惑の湯力。無色透明ながら硫黄の香るお湯は柔らかく、pH9.3という強いアルカリ性を示す単純温泉はものすごいとろみが印象的。
熱すぎずぬるすぎず、とろんとろんとぅるんとぅるんのお湯に抱かれ漏れる深い息。その豊満な浴感に包まれながら網膜に浴びる、新緑の鮮烈さ。この瞬間、僕の幸せな時間は約束された。萌える季節の東北は、何物にも代えがたい。
あぁ、幸せだ。掛け値なしに心底そう思える、朗らかな湯上り。琥珀の冷たい刺激を喉へと流せば、その苦みはすぐさま至福へと昇華してゆくかのよう。そんな贅沢な時間に一層厚みをもたせてくれるのが、この空間。宮大工が手掛けたという客室には、現代の技に支えられた重厚感が満ち溢れています。
ビールを飲み干し、ごろんと転がり見上げる高い天井。肌に感じる畳の冷たさを噛みしめ、気が向いたらベッドに移ってほんの少しばかりの惰眠に落ちる。早くも和洋室のいけない魅力に染まりつつ、もうひとっ風呂浴びにゆくことに。
夕食前に向かったのは、もうひとつの浴場であるこもれび乃湯へ。ぴしっと線の通った方形の浴槽はモダンな雰囲気で、先ほどのとよさわ乃湯とはまた違った趣が。
たっぷりと掛け流される源泉が絶えず縁から流れ落ち、曖昧に溶けゆく岩手の新緑と湯の境界線。身を沈めてしばらく待てば、自分が水盤の中に吸収されてしまったかのような独特の一体感ある浮遊感に包まれます。
ちょっとこれは、贅沢すぎたかな。つるすべのお湯と重厚な空間にこころまで火照り、上機嫌で迎える夕食の時間。一面の窓に新緑の映る食事会場で、今宵の宴を始めます。
まずは前菜から。ふっくらと煮られたほたるいかは旨味が詰まり、添えられたじゃきじゃきつるつるのめかぶがまた旨い。この崎浜ヤンキーメカブは早摘みのものだそうで、これまで食べたものとは一線を画す瑞々しさ。
お隣のアスパラは甘味と風味が濃く、春菜のお浸しは春の香りを彩る桜えびの香ばしさと炒り卵の優しい風合いが好相性。ほたてやまぐろのお刺身もおいしく、早速七福神が進んでしまいます。
岩手名産の白金豚は、たっぷりの野菜とともに鍋物で。しっとりときめ細やかで柔らかな赤身、しっかりと甘さを感じさせる旨い白身。コクがありつつもきりっとしたごまだれが豚の旨さを一層引き立て、やっぱり肉は豚だなとブーブー豚好きとして悦んでしまう。
続いて、熱々を運ばれてきた蒸し物を。ふるふると上品な茶碗蒸しを掬ってみると、中からはたっぷりの新若布が。
だしと卵の優しくも豊潤な味わい、しなやかさに磯の香漂う新若布。くせのない三陸産しうり貝はしっかりと旨味が詰まり、アスパラの風味が潮騒に野の彩りを添えるよう。
笹の葉に包まれているのは、三陸産本鱒南部杜氏焼。本鱒はほっくり感としっとり感が共存し、凝縮感ある身にじんわりと宿る深い滋味が印象的。上のソースがまた絶品で、穏やかなクリーミーさがほどよい淡白さの鱒を華やかに包んでくれています。
さらに続いて熱々の煮物が。もちもちの桜蒸しにはわかめが隠され、桜の葉と磯の若さ、ふたつの春の香りの共演を愉しめます。全体をまとめる豌豆の摺り流しがまた風味よく、ほっくりとした豆感が漂う穏やかな味わいにこころの芯から解されるよう。
そしてなぜか写真を撮り忘れた山菜じゃこ飯と浅蜊味噌汁でおいしい仕上げを。たっぷりの山菜とちりめん山椒、細切りの揚げが炊き込まれ、じゃこの旨味や香ばしさと実山椒の華やかさに思わずおかわりを頼んでしまいそうに。
いやぁ、どれも趣向が凝らされており本当においしかった。最後にデザートで〆て、大満足で部屋へと戻ります。18時半からゆっくり食べて小一時間。ライトアップされた新緑の奥には、まだほんのりと今日という日の余韻を残す宵の口の空。あとはもう、気の向くままお湯と怠惰に揺蕩う時間。
2年半ぶりに花巻南温泉峡で過ごす静かな夜。そのお供にと選んだのは、花巻は川村酒造店の醸す南部関特別純米酒。しっかりと酸味を感じるふくよかな味わいながら、すっとキレのある飲み飽きない旨い酒。
やっぱりちょっと、ご褒美がすぎるかな。でもまあいいや、自分頑張ったもん。
実は、前回の群馬旅終盤、山名八幡宮の境内で知らせを受けた人事異動。まだまだ先だとノーマークでいたら、まさか旅先でそんなことになるなんて。
それからは、あっという間に過ぎた怒涛の日々。元々忙しくなる年度末から年度初め、それを慣れない新職場で何とか耐えた。今回は、そんな自分へのご褒美旅。その舞台にと選んだのが、広大な露天と宮大工の技が光る優香苑だった。
ちょっと奮発したけれど、たまにはこんな贅沢もいいだろう。お湯とお酒、そして一段落着いたという安堵感に満たされつつ見上げる日本の建築美に、いつもとはひと味違った旅の悦びを見つけるのでした。
コメント