鷹ノ巣から奥羽本線に揺られること33分、陣場駅に到着。ここは日中は2時間に1本しか列車が停まらないという、なかなか来ることの難しい駅。隣駅は津軽湯の沢、奥羽本線では秋田県最北の駅でもあります。
事前に予約していた宿の送迎車に乗り換え、国道を逸れ山の中へ。周囲に広がる秋田杉の美林に目を奪われていると、5分程で今宵の宿である『日景温泉』に到着。
15年以上前から、ずっと来たいと思い続けてきた秘湯の宿。念願叶い訪れることのできた悦びを噛みしめつつ、チェックインを終え自室へ。今回予約したのは洋室。ベッドにソファー、オットマン付きのリクライニングチェアーと、くつろぐための場所が勢ぞろい。
さっそく浴衣に着替え、いざお風呂へ。まずは大浴場のぬぐだまる湯っこへと向かいます。
脱衣所から浴室への扉を開けた瞬間、襲われる懐かしいあの感覚。秘湯らしい情緒に満ちた木造りの湯屋には、硫黄の香に混じり油やゴム、漬物と形容しがたい独特の香りが充満しています。
あれ?もしかして?と懐かしみつつ、木の風合いが肌に優しい内風呂に肩まで浸かる。こちらには元からあるぬるめの源泉が掛け流されており、柔らかな肌触りながらずっしりとくるような濃厚な浴感が印象的。
続いて露天風呂へ。その瞬間、僕は確信した。いるんだよ、あのお湯の面影が。確かにそこには、想い出の秋元温泉の強烈な湯の気配があるのです。
数年前に新たに掘られたという源泉が掛け流される、露天の岩風呂。得も言われぬ香りはより強く、温度も高く成分も段違いに濃厚。肩まで浸かれば、自分が浅漬けにでもされそうな感覚に陥るほど。
白濁する濃厚な湯、そこから立ちのぼる薬効を感じさせる個性豊かな香り。皮膚を通して体の芯へと圧してくるような浴感に、思わず目頭が熱くなる。山の反対側、今はなき秋元温泉。あちらはこれの十倍ほどは強烈だったけれど、まさか再び似たようなお湯に浸かれるなんて。
山の北と南、直線距離でそう離れてないので当たり前といえば当たり前。けれどまったく予想していなかっただけに、その嬉しさはひとしお。
ここでしか味わえぬ濃密な新源泉、それよりも穏やかでしかししっかりと温まる日景を支えてきた旧源泉。ふたつの湯にめぐり合い、早くもホクホクとした心持ちで部屋へと戻ります。
もともと渋い秘湯宿だったところを、経営が変わり往時の面影を残しつつモダンにリニューアルされた日景温泉。各部屋にはエアコンも導入されていますが、雨降る今日は網戸で過ごすのが心地よい。
明けた窓から吹き込む山の冷涼を肌に感じつつ、湯上りに転がるベッドの至福。羽田を昼過ぎに飛び立ち、16時過ぎにはこうしていられる。鉄路では決して叶えられない時間軸に、いまだ自分がどこにいるか実感が掴めない。
秋田の夕刻前を彩る蜩の声を聴きつつ、眠るわけでもなくぼんやりと過ごすひととき。体と心の火照りも落ち着いたところで、今度は貸切露天風呂のうるげる湯っこへ。
こちらの宿は、チェックイン時に無料の貸切風呂を予約するスタイル。当日と翌日の朝の2回、各お風呂の名前が書かれた黒板に自室のマグネットを付け予約完了。時間になったら湯屋へと向かい、入浴中の札を裏返して内鍵を掛けて利用します。
ひとりで貸し切るには申し訳ない広さの浴槽をもつ、うるげる湯っこ。優しい肌触りの木の浴槽に身を沈めれば、目の前に広がる黒々とした秋田杉の美林。満たされるのは、強烈な個性の新源泉。湯あたりしないよう汗を掻いたらベンチに腰掛け、天然のクーラーと言いたくなる山の涼風を全身に浴びる。
あぁ、幸せだ。今回は行程と空室の妙により偶然に宿泊が叶ったけれど、これは1泊ではもったいない宿だ。次来るときは、絶対連泊だな。そんな良からぬ企みを浮かべつつ、至福の湯浴みを存分に噛みしめます。
贅沢を言えば、渋い山の宿時代にも来てみたかった。そう思えるのは、随所に古き良き情緒が残されているから。木枠の窓にはめ込まれた昭和を感じさせる擦り硝子に、往時の姿を想像するばかり。
いい湯いい宿だな。夕食前から感じる手ごたえに、連泊での再訪を強く誓う。そんな湯上がりを彩る、キンキンに冷えた一番搾り。部屋の冷蔵庫にはサービスのビールとグラスが冷やされ、なんとも憎い心遣いに嬉しくなる。
存在を知ってから15年以上、憧れ続けてきた秋田青森県境の秘湯。訪問することなく廃業を耳にしたときは、本当に落胆したのを覚えている。それがこうして復活し、ようやく叶った初宿泊。その極限まで高まった期待を遥かに超える湯の良さに触れ、早くもこの宿を包む世界観に心酔するのでした。
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