富士身延鉄道として生を享け、その後国有化を経てJRへと移管された身延線。私鉄由来らしい短い駅間をこまめに刻むこと約50分、この旅の目的地である下部温泉駅に到着。
初めてこの地を訪れてから10ヶ月。まさか1年経たずして再訪することになろうとは。まだしっかりと色味を残す前回の記憶と重ねつつ、ひっそりと鄙びた温泉街を歩きます。
駅からのんびり歩くこと15分足らず、『元湯橋本屋』に到着。去年の12月に連泊し、すっかり虜になってしまった魅惑の宿。
前回と同じく6畳のプランを予約していましたが、ご厚意によりトイレ付きの広いお部屋が用意されていました。これから2泊、ここが僕の怠惰の舞台。そう思うだけで、早くもこころはとろけてゆく。
逸る気持ちを抑えつつ浴衣に着替え、早速お風呂へ。その道中、浴客をまず出迎えるのがこの温泉分析書。70年近くを経た時の厚みが、旧字体や古い仮名遣いからにじみ出る。
信玄公の隠し湯として知られる下部温泉。温泉街としての歴史は江戸時代に始まり、下部川に架かる神泉橋の袂に創業した4軒の湯宿のうちの1軒がここ橋本屋なのだそう。
そんな歴史深い宿で味わう、下部の霊泉。前回この湯と初めて出逢い、すっかり骨抜きに。その感覚がどうしても忘れられず、1年経たずしてこうして再び逢いにきてしまった。
このお宿には大浴場と小浴場があり、その日の宿泊者の男女比により混浴と女性専用に割り振られます。到着時は大浴場が混浴。奥の大きな湯船は下部の特長である32℃程度のぬるい湯が、手前の小さな浴槽には新たに掘削された50℃近くある熱い源泉が使われています。
前回の滞在中、自分的に心地よい入浴法を体得。まずは熱い湯で体を温めて。といきたいところですが、最初からぬる湯に入るのが僕の好み。
最初こそひんやりと感じますが次第に薄れ、しばらく経てば体全体を包んでゆく得も言われぬ独特の感覚が。強いて言うならば、自分というものがぬる湯と同化し溶け込んでゆくような浮遊感。
ゆっくりと身を沈め、深く息を吐き静かに眼を閉じる。体に感じる浮力に身を任せ、自分の内外の境界を溶かしてゆくような絶妙な温度に心身を解放し。そんな感覚に揺蕩っていると、あっという間に時間が過ぎてゆく。
そしてふと訪れる、あ、もうそろそろ上がってもいいかなと思える瞬間。最後に熱い湯でさっと体を温めてお湯から出れば、そこに待つのはゆるゆるとほぐされた体とこころの心地よさ。
そして嬉しいのが、下部の湯力を体内からも補給できるということ。浴槽の一画には贅沢にもぬる湯の源泉がドボドボと注がれ、清らかさを感じさせる口あたりの良い源泉をその場で飲むことができます。
40分ほどかけてぬる湯にほぐされ、飲泉で水分と湯の力を体内に満たし熱い湯で仕上げ。小一時間そんな魅惑の湯浴みを愉しみ、すっかりあの感覚に溶かされたところで湯上りのご褒美を。
冷たいビールの刺激に目を細めていると、窓の外にふんわりとした明るさが。いつしか雨は上がり、木々から生まれくる淡い靄。その霞む先には夕刻の青空が顔を覗かせ、山全体が呼吸しているかのような光景に息を呑む。
僕のほどけはじめた日々のあれこれを映すかのように、パステルの優しい色味が包む幻想的な世界。自然の魅せる色彩の移ろいも束の間に、ほどなくして狭い谷には早くも夜の気配が忍び寄る。
もう一度大浴場に向かい、じっくりと心ゆくまでぬる湯と戯れる。そんな穏やかな至福を嚙みしめていると、そろそろ夕食の時間。部屋に戻りぼんやりと過ごすことしばし、女将さんが2段のお膳をお部屋まで運んできてくれます。
まずは前菜から。しゃきしゃきと優しい味わいのキャロットラペ、ちょうど良い塩梅が旨味を活かすアスパラベーコン。里芋はねっとりと風味よく、さつまいもや銀杏、むかごは素揚げにされ秋の実りをシンプルに味わいます。
身延の名物であるゆば刺しは、もっちりとした食感に詰まる濃厚な豆の旨味と甘味。噛めばクリーミーさがぶわりと広がり、甲州の酒七賢が進んでしまう。
岩魚はふっくらと香ばしく焼かれ、ふんわりとした身に宿る川魚だからこその滋味が堪らない。鶏と根菜の煮物は、手作りの温もりの込められたコクのある深い味。揚げた舞茸やなす、旨味の凝縮されたゆばには塩ベースの上品な餡がかけられ、それぞれの素材の持ち味が活かされています。
煮えたて熱々を愉しめる、豚と塩鱈のお鍋。薄口の上品なおだしに鱈の旨味と程よい塩気が染みだし、それらを吸った野菜や豚がまた旨いこと。
手作りの味に七賢を飲み干し、まぐろやサーモンのお刺身にお吸い物とお漬物で〆のご飯を。下部の鉱泉で炊いたというご飯は、艶々とした見た目の通りの絶品。ふっくらもちもち甘い味わいは、ご飯をおかずにご飯を食べたいと思える旨さ。
いやぁ、今回も温もり溢れる味に大満足。おひつのご飯までしっかり平らげ、もうお腹はぱんぱんに。敷いた布団にごろりと転がり、微睡むわけでもなくぼんやり身を委ねる食後の怠惰。そんな甘美を噛みしめつつお腹を落ち着かせ、ひとり宴の続きを始めることに。
静かに流れる下部の夜にと選んだのは、富士河口湖町の井出醸造店が醸す甲斐の開運特別純米北麓。富士山の湧水で仕込んだというお酒は、きりりと締まりながらお米のふくよかさを感じさせる旨味と甘味。あまり東京では見かけないけれど、山梨って本当に日本酒がおいしいところなんだな。
あとはもう、心ゆくままにお酒とお湯に揺蕩うだけ。気が向いたら浴場へと向かい、じっくり静かに下部のぬる湯と対峙する。ときおり飲泉で喉を潤せば、お酒の火照りすらすうっと流れ落ちてゆく。本当に、この浴感は独特だ。そしてその力は、湯上りに本領発揮。本日3度目の入浴にして、もうすっかり心身の奥がゆるんできた。
無色透明、さらりとしたアルカリ性単純温泉。あれほど清らかな源泉に、一体何が隠されているのだろう。一浴ごとに軽くなる体と心に改めて驚きつつ、部屋へと戻り宴を再開。
四合瓶の半分は明日へと残し、続いて山梨に来たらやっぱり飲みたいワインへ。日本に現存する最古のワイナリーだという甲州市は勝沼のまるき葡萄酒、いろ甲州を開けてみます。
ひと口飲んだ途端、うわぁと声が漏れてしまう。これ、好みだわぁ。ほどよい酸味にドライな香り、そして若干感じる甘味。どちらかといえば果実味溢れるワインが好きですが、初体験の旨さにちょっと驚き。これ単体で飲むのはもちろん、地酒のように和食に合わせたほうがもっと豊かな味わいを愉しめそう。
遠くに下部川の音を聴きつつ過ごす、ひとりの静かな夜。今回の旅は下部に行きたい、というより橋本屋さんに行きたいという衝動が発端だった。
下部の湯力にゆるゆるとほぐされ、お宿の雰囲気や手作りの味に優しく包まれ。やっぱり来てよかったな。そんな温かい満足感に包まれつつ、甲斐の酒にさらにこころをほどかれてゆくのでした。
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