温湯温泉で迎える穏やかな朝。障子越しに差し込む淡い明るさに起こされ、まだ誰もいない静かな湯屋へ。荒々しく積まれた岩を眺め、湯けむりの満ちるなか抱かれるさらりとした優しさ。ここのお湯は、圧を感じないのに本当に芯から温まる。
朝から温湯の温もりにゆるゆると解され、空腹全開になったところでお待ちかねの朝食の時間。食卓の横には蓋つきの箱が置かれ、その中から好みの小鉢を選びます。
欲張りな僕は、もちろん全部ピックアップ。しゃっきりとしたごぼうサラダや優しい甘さのかぼちゃサラダ、穏やかな味わいのおからと温泉で空っぽになった心身を優しく満たしてくれるおかずたち。焼き立ての赤魚の塩麹漬けはまろやかな塩気で、ほくほくとした旨味が白いご飯をより進めてくれる。
火にかけられた土鍋では、くつくつと煮える熱々の湯豆腐。食卓に用意されたしょう油やぽん酢、白だしを掛けてつるりと頬張れば、お腹の芯からじんわりと温もりが広がってゆく。
朝から優しい和の味わいに満たされ、おひつ丸ごと平らげほくほく顔で自室へと戻ります。昨夜の夕飯時には気づきませんでしたが、大広間の前からは旧館と中庭の眺め。奥の坂道から続く中庭は、かつて仙台藩と秋田藩とを結んだ街道跡。それを挟むようにして荘厳な木造建築が対峙する姿に、若き日の僕は一目惚れした。
本館から浴室棟へと向かう廊下には、二度の震災による被害と復興の足跡が。テレビを点けて我が目を疑った地すべり、想い出の湯栄館を呑み込んだ堰止湖。それらの消せない記憶の隣には、被災してしまったあの木造宿の姿。
内陸地震で源泉が止まり、新源泉が確保され再建へと向けて建物を修復。ようやくと思ったところで迎えた、2011年3月11日。ついに宿の再開を断念せざるを得ず、街道筋の社交場として賑わってきた歴史ある湯宿は長い眠りへ。
その後いまのご主人が事業継承し、休館から12年の時を経て復活。災害のみならず、様々な理由で消えてゆく全国各地の古き良き宿。この山奥の宿が息を吹き返したこと自体、奇跡だと思わずにはいられない。
自分の想い出の宿や憧れの地が、ひっそりと消えてゆく。この趣味を続けていると次第に増える、そんな切なさと対峙しなければならない瞬間。だからこそ、今ここでこうして佇んでいられるという事実を静かに噛みしめたい。
春まだ浅い花山の地で様々な想いに耽っていると、時刻はもうお昼どきに。ランチは営業している日とそうでない日があるようで、ご主人のご厚意でカレーライスを用意していただいてしまいました。
これまたご厚意で載せていただいたカツとともにひと口。とろりとしたルーにはお肉や野菜の味わいがしっかりと溶け込み、ほどよい甘味や酸味の後から広がるスパイシーさ。華やかなコクあるおいしさに、旨い旨いとあっという間に平らげます。
カレーでかいた汗を流すべく、お腹も落ち着いたところで再び湯屋へ。さらりとしたお湯に身を委ね、心身の奥から解けてゆくのを静かに俯瞰する。この清らかないで湯には、穏やかながら確かな力が宿っている。
逆上せるような感覚はないのに、湯上りには全身から汗がたらたら温もり長持ち。芯からほくほくと茹だったところで喉へと流す金星は、筆舌に尽くしがたい至福の味わい。
限りなくゆるりと過ごしていたはずなのに、光の速さで過ぎゆく時間。迫川の刻む谷には早くも夕刻の知らせが届き、二夜目の始まりを教えてくれる。
温湯の湯は胃腸に効くのか、歳とともに疎遠になりがちな心地よい空腹感が。そんな嬉しさに背中を押され、今宵もひとり静かな宴をはじめます。
ほんのり甘酢風味のなめこおろしに、ほっくりとした薄味のれんこんの煮物。たけのことぜんまいの炒め煮も手作りの温もりを感じる旨さで、山の幸片手に地酒が進みます。
そして今宵も運ばれてきた、焼きたての岩魚の塩焼き。地元花山で育てられた岩魚はクセがなく、ほくほくとした上品な身にじんわりと宿る滋味が堪らない。
食卓でぐつぐつと煮えるのは、特製寄せ鍋。きのこや野菜、赤魚の旨味が薄味のだしに溶け込み、お腹の底へとすっと沁み入るような優しいおいしさ。
今夜の選べる焼き物は、牛タンの陶板焼き。ほどよい塩梅で漬け込まれた牛タンはぷりっと柔らかく、噛めばじゅわっと広がる旨味と脂の甘味が宮城の地酒にこれまたぴったり。
そして〆にと運ばれてきたのは、岩魚のちらし寿司。もっちりとした身には白身ならではの上品な旨味と甘味が詰まり、それを受けとめるほんのり甘めのちらしと好相性。昨晩の漬け丼とはまた異なる表情に、淡水魚好きとしては無限の可能性を感じてしまう。
地の恵みたっぷりの夕餉に満たされ、大満足で戻る静かな自室。今宵も幕を開ける、いで湯と酒に揺蕩う甘美。そんなお供にと開けるのは、美里町は川敬商店が醸す黄金澤山廃純米酒。とろりとした口当たりと、じゅんわり広がるフルーティーさ。バランスのとれた味わいに、湯呑酒が進んでしまう。
宮城の酒にほんのりと染められたところで、夜の湯屋へ。ほどよく薄暗い空間を満たす湯けむりと、こだまする湯の落とされる音。適温の湯に抱かれ目を瞑れば、自分と湯の境界すらあやふやになる。
湯上がりの時間を豊かに彩る、欠かせぬ相棒。続いて開けるのは富谷市の内ヶ崎酒造店、鳳陽純米大吟醸。360年以上の歴史をもつという、宮城最古の蔵元が醸すこのお酒。甘酸っぱくふくよかでありながらさらりと落ちてゆく、飲み飽きない旨い酒。
こたつに包まれ地酒を味わう。そんな至福にこころを染める、静かで温かい夜。春の近い花山で、いで湯のみではない確かな温もりにじんわりと抱かれるのでした。
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