標高1,870mで迎える爽快な朝。いやぁ、久しぶりに本当によく寝た。それが目覚めた瞬間、まず思ったこと。冷房なしで快適という人間が生きるのに適切な気温もあるが、これはやっぱり鉱泉の威力だろう。あのゆるゆるとした湯に、一体何が込められているのだろうか。
深い眠りもさることながら、胃腸が元気を取り戻している気がする。昨日満腹になるまで食べたのに、朝風呂に揺蕩えばもうすっかり空腹に。朝食開始の時刻に合わせ、食堂へと向かいます。
焼きたての分厚い鮭に、山菜なめこやきんぴらごぼう、甘辛いわかさぎとご飯に合うものばかり。そして嬉しいのが、ほっとする味わいの具だくさんのお味噌汁。おいしいおかずや卵納豆とともに、朝からおひつ丸ごと完食します。
敷きっぱなしの布団に転がり、満腹も落ち着いたところで午前の湯浴みへ。誰もいない静かな湯屋。苔むす岩に羊歯や木が生える独特の世界観は、内湯でありながら八ヶ岳の懐に抱かれているかのような心地よさ。
小一時間ほどぬる湯と遊び、心身もすっかりほぐれたところでちょっとばかり散歩へ。宿のすぐ近くにあるという源泉の池に行ってみることに。
池の底には、硫黄だろうか白く沈殿する成分が。その周囲は分厚い苔に覆われ、この一画にだけ漂う妖艶なうつくしさに息を呑む。
角度を変えるごとに、その表情も変化。滔々と流れゆく清らかな源泉、それを埋め尽くさんとばかりに広がる苔の色味。白と緑の得も言われぬ対比に、言葉を失くし見入ってしまう。
不思議な力の宿る霊泉を守るかのようにして、たおやかに繁茂する苔。そのビロードのような質感に、改めて苔という植物の持つ艶やかさを思い知る。
本当はもう少し歩くつもりでしたが、とにかくアブがすごくてすごくて。首筋をちくっと甘咬みされたので、一目散に宿へと退避します。翌日女将さんに聞くと、どうやらちょうどこの時期がアブの季節なのだそう。
虫よけも持ってきていないし、半袖だし、熊よけの鈴もないし。これはまた次回へつながる善き宿題ができたな。そんな再訪の口実を持ち帰り、お昼を食べるため食堂へと向かいます。
食堂をはじめ、宿のいたるところに飾られたドライフラワー。この地の気候が花の乾燥に適しているそうで、地元の花で手作りしているのだそう。そんな空間に存在感を示す、猪の剥製。これがまた、山奥の一軒宿という雰囲気を醸しだす。
いくつかのメニューがあるなかで、今回は山菜そばを注文。運ばれてきた丼を見ると、予想外の具沢山。
しゃきしゃきのわらびにつるんとしたなめこ、おつゆを味わい深くしてくれるとろろ。にんじんとさつまいものかき揚げがほっくりと甘く、窓からの自然の風に吹かれながらあっという間に平らげます。
おいしいおそばに満たされ、お腹も落ち着いたところで再び湯屋へ。ここのお湯は年に数回だけ色が変わることがあるそうですが、基本的にはこのとおり無色透明。よくよく見れば細かい湯の花もちらほらと舞い、静かに浸かっていれば次第に肌を覆ってゆく細かい炭酸の泡。
熱くもなく、そしてぬるすぎずの絶妙な塩梅に加温された浴槽。縁に頭を預け、全身を湯に放り出し無心になる。いつしか自分と湯の境すらあやふやになり、そのゆるゆるとした独特な浴感に日々のあれこれがほどけてゆく。
本当に、不思議なお湯だな。よほど相性が良いのか、自分でも信じられないくらいに心身の疲れが霧散してしまった。稀に、こんな不思議な体験に出逢うことができる。そんな旅、そして温泉好きの醍醐味を静かに噛みしめ、冷たい金星の至福の刺激を喉へと流します。
午前中はあれほど晴れていたのに、いよいよ降りだした雨。強弱を交えつつ、屋根を叩く雨粒の音。ひとりで過ごす午後には、こんなしっとりとした風情もまた味わい深い。
浸かっては微睡み、浸かっては微睡み。そんな怠惰な甘美に身を委ねていると、あっという間にもう夕食の時間に。今夜は一体どんなお料理が迎えてくれるのだろう。そう期待しつつ食堂へと向かえば、期待通りのおいしそうな品々がずらりと並んでいます。
さっそく神渡の冷酒を頼み、前菜から。旨味とほどよい酸味の込められた、さっぱりとしたトマト寒天。添えられたセロリやいんげんは薄味で、野菜の瑞々しさが活かされています。その隣の甘酢漬けはイタドリだろうか、しゃきっとした楽しい食感が印象的。
山女の焼魚にはふきのとう味噌が載せられ、川魚の淡白な滋味にほろ苦さが合わさり至福の旨さ。鴨ロースも柔らかく、添えられたほくほくのポテサラとも好相性。サーモンのカルパッチョもおいしく、和洋どちらも愉しめる献立に地酒が進みます。
そして今夜の野菜たっぷりのお皿は、肉味噌田楽。野菜そのものの味わいを活かす薄味で炊かれており、ひき肉の旨味がしっかりと込められたコクのある肉味噌がこれまた旨い。
おいしいおかずつまみに地酒を味わっていると、熱々のお吸い物が。中にはうれしい、立派な松茸。女将さんは去年のものだけれどと言っていたが、そうとは思えぬ歯ごたえと風味にびっくり。鶏むね肉にたけのこ、そして茅野らしい糸寒天が松茸の風味の染み出た上品なおつゆをまとい、思わずにやけてしまうおいしさに。
地酒もすっかり飲み干し、お待ちかねのもちもち甘旨のごはんを。酸味が心地よい野沢菜の古漬けのほか、今夜はわらびの漬物も。しゃきっとぬめっと、わらびのよさを残した味わいに、白いご飯が止まらなくなる。
今夜もおいしい夕食に満たされ、大満足で自室へと戻ります。ぱつぱつのお腹も若干落ち着いたところで、最後の夜を彩るお供を開けることに。選んだのは、諏訪の信州舞姫、扇ラベル純米吟醸夏金魚。
とろりとした口当たり、柑橘のような雰囲気を感じさせる甘酸っぱさ。信州の酒といって想起するものとははまた違った表情に、改めてこの広大な酒処に惚れ直す。
断続的に屋根から響く、雨の音。そんな静かな夜にと続いて開けるのは、塩尻のアルプスが醸す信州ワイン。ドライながら清涼感ある余韻の愉しめる白、渋みの後に旨味を感じる赤。信濃の国は、米でも葡萄でも吞兵衛を酔わす罪な奴。
旨い酒にほんのりこころを染め、その火照りを癒すべく向かう夜の湯屋。そこに満たされるのは、ゆるりと包んでくれる穏やかな湯。その優しさとこころゆくまで戯れれば、溜め込んでしまったあれやこれやがすっと消えてゆく。
ここしばらく、長い間頭と心にかかっていた靄。驚くことに、それがこの2日間ですっかり晴れてしまったようだ。刺激や圧はまったく感じない。それなのに、なぜこうも覿面に反応するのだろう。この清らかな湯に込められた不思議な力に身を任せ、静かな時間はゆっくりと流れてゆくのでした。
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