軽井沢から勇壮な浅間山を愛でつつ走ること24分、小諸に到着。何度旅をしていても、こうしてはじめての地に降り立つ瞬間はたまらない。明後日は、この街を見て歩く予定。駅前をぶらぶらしたい衝動を抑えつつ、日当たりの良いベンチでのんびり過ごします。

ぐいぐいと浅間山の懐へと挑み、最後の4㎞は未舗装の道を駆ける送迎車。行く手に迫る前掛山や牙山、右手に連なる八ヶ岳や霧ヶ峰、アルプスの山並み。信州らしい絶景に目を奪われつつ揺られること20分ちょっと、この旅を動機づけた『天狗温泉浅間山荘』に到着。

フロントでチェックインを終え、さっそく自室へ。扉を開ければ、全身を包むこの明るさ。陽光あふれる角部屋に、春先取りと思わずうれしくなってしまう。

窓の外には、胸のすくようなこの眺望。雲ひとつない、若き春の青さを湛える信濃の空。風は冷たく、しかし陽射しの温もりが勝っている。点けられていた暖房を切り、このぬくぬくとした贅沢をしばし目を細めて全身で受け取ります。

信州の清浄な空気を胸いっぱいに吸い込んだところで、浴衣に着替えお待ちかねの湯との対面を。扉を開ければ、そこに待つのはあり得ない色をした湯。写真では伝えきれないその色味は、例えるなら野菜ジュースのような濃い人参色。

さっそく身体を流し、いざ湯船へ。その刹那、皮膚を通して伝わる濃厚さ。ぐいぐい来るような圧はないが、長湯してはいけないと本能が察する湯の力。その見た目だけでなく、この湯のもつ質量も濃いようだ。
この地に湧くのは、単純鉄冷鉱泉。源泉温は約8℃と低いため加温循環されていますが、そんなことどうでもよくなるほどのここちよさ。肩まで静かに沈んでいれば、ほんの数分でぶわっと汗が噴き出てくる。湯口についたこの析出物も、この湯の濃厚さを物語る。

あの濃ゆい鉄泉に逢いたくて、ここまでやってきた。そんな期待通りのすばらしい湯にすっかり茹でられ、汗だくで喉へと流す至福の冷たさ。明けた窓から吹き込む冷涼な山の空気、それがビールを一層旨くする。

14時半と早めのチェックインだったので、湯に揺蕩ってはごろごろしてと最高の贅沢をのんびり甘受。そんなゆるやかな怠惰に身を委ねていると、いつしか空は夕色に。

茜色の空を愛でつつもう一度橙色の湯に染まり、お腹もすいたところでお待ちかねの夕食の時間。食堂へと向かえば、食卓にはおいしそうな山の幸がずらりと並びます。
まずは前菜のお皿から。今年は雪が少なく温かいため、いつもより半月ほど早く顔を出したというふきのとう。素揚げされたそれを頬張れば、春の息吹が口から鼻へと一気に抜けてゆく。
干し柿とゴルゴンゾーラの組み合わせの妙が地酒を誘い、しゃきしゃきとしたキャロットラペも美味。フランスパンに載せられているのは、鹿のパテ。クセなどまったくなく、それでいて濃厚な滋味がたまらない。
つづいて小鉢を。わさびと大葉のきいた漬けまぐろとアボカド和え、香ばしさとここちよい甘さが菜っ葉を旨くするほうれん草の胡麻和え。わかめとほたてのぬたは穏やかながらコク深く、さすがは味噌の国だと頷く旨さ。
つややかな餡が掛けられているのは、芋団子。ほくほく感を残したうれしいじゃが感、その素朴なおいしさを華やかにしてくれる甘めのふき味噌。この季節ならではの豊かな香りが、信州の清らかな酒と合わぬわけがない。
そして今宵のメインは、きのこや野菜がたっぷりと入ったすき焼き。ぐつぐつと煮えたところでお肉を入れ、割り下にほどよく染まったところで卵につけて。牛の甘味旨味とともにぶわっと広がる、きのこの香り。特にこの山で採れたというくりたけの風味がよく、ふわっと香るほのかな苦味に思わず頬が緩んでしまう。

つづいて運ばれてきたのは、揚げたて熱々のかき揚げ。たっぷり野菜の甘味、ふわっとほとばしるふきのとう。それらがさっくり軽やかにまとめられ、淡口の天つゆが繊細な旨さを引きたててくれている。

何を食べても旨い旨いと地酒を傾けていると、さらに茹でたての手打ちそばが。そしてこのそば、抜群に旨いのなんの。艶やかな見た目通りのど越しがよく、しゃっきりとした強いコシに驚き。載せられたそばの実揚げの香ばしさもここちよく、信州に来てよかった!と心のなかでガッツポーズ。

おそばまですっかり平らげ満腹ながら、最後に一膳だけご飯をもらい〆ることに。ふっくら甘いご飯のお供には、いい色味に染まった野沢菜の古漬け。正直言えば青い野沢菜派の僕ですが、この古漬けは絶妙な酸味と旨味が本当に美味。しゃくしゃく噛みしめ、熱々ご飯。もうこれだけで、いくらでも食べられてしまいそう。
さらに嬉しかったのが、お味噌汁の豊かな味わい。たっぷりの野菜から染み出た甘味や旨味、それをまとめる味噌のコク。必要十分な量ながら、その穏やかで豊満な風味にやはりここは味噌の国だと溜息が出る。

お湯もさることながら、ご飯も最高。ちょっとこれは、やばい宿に出逢ってしまったかも。そんな満足感に包まれ、畳でごろごろのんべんだらり。ようやくぱんぱんになったお腹も落ち着いたところで、夜のお供を開けることに。
今宵選んだのは、佐久は千曲錦酒造の千曲錦純米酒。口に含めばふわっと香り、きりりとしたここちよい辛味と酸味が広がってゆく。甘酸っぱい余韻がありながらキレがよく、その豊かな味わいがひと口、もうひと口と誘ってくる。

佐久の酒にほんのりと染められたところで、あの濃い湯にも染まりにゆくことに。この日は宿泊客は僕ひとり。贅沢にも貸切状態で、この赤い湯と戯れます。
とっぷりと静かに肩まで浸かれば、ざざぁと溢れてゆく湯。その浴感は立ち寄り客が訪れていた日中よりも濃いものとなり、よりまろやか、いや、こってりといった印象に。

濃密ながら鉄泉にありがちなぎしぎしとした感覚もなく、するりと肌を包んでゆく真っ赤な湯。すごいお湯があるもんだな。あらためて温泉の懐の深さに感嘆したところで、つづいてのお供を開けることに。
すっかり気に入ってしまった、2本目のワイン。塩尻の井筒ワインが醸す、果報シャルドネ。香りや酸味がおだやかで、角のないするりとした飲みやすさ。ドライながら白葡萄の旨味やほんのりとした渋みがふんわり広がり、今まで飲んだことのない旨さに驚き。

信州の旨い酒を味わい、気が向いたら湯に揺蕩いに。はぁ、控えめに言って最高だ。静かで深い夜にすっかり染まり、窓を開けて見上げる空。漆黒のなかに、くっきりと浮かぶオリオン座。その瞬きと冷たい夜風を浴び、来てよかったと素直な悦びを静かに噛みしめるのでした。



コメント