浅間山に抱かれ迎える静かな朝。窓からもれる仄明かりに目が覚め外を眺めれば、信州の山並みをゆるりと染める今日の気配。夜から朝へとうつろうこの瞬間、幻想的な空色にはっと息を呑む。

赤銅色の湯に身を預け、じんわり染まるそのぬくもり。明けゆく空を愛でつつの贅沢な朝湯を愉しみ、芯から茹だったところで自室でごろり。そんな旅の朝ならではの優雅な怠惰に浸っていると、お待ちかねの朝食の時間に。
ふっくらとおいしいぶりの照り焼き、ピリ辛のコク深さがご飯を誘う茄子のみそ炒め。れんこんにしめじ、さつま揚げの入った切干大根は、食感や風味を愉しめる手づくりの味。
そんなおいしいおかずとともに白いご飯を一層おいしくしてくれるのが、おだやかさに満ちたお味噌汁。野菜から出た甘味を邪魔しない、必要十分な絶妙な塩梅。やさしくもぶわっと広がる奥行きが、心身の芯へと沁みてゆく。

手づくりのおいしい朝食を、より一層温かいものにしてくれる薪ストーブ。パチパチとはぜる音を聴きつつ、背中に受け取るじんわりとした火の気配。サンルームに流れるゆったりとした時間に、今はただのんびりと揺蕩っていたい。

おいしいご飯にたっぷり満たされ、日当たりのよい角部屋で贅沢にも食後のうたた寝。夢と現を行ったり来たりしていると、清掃時間が終わりお風呂が再開。濃密な鉄泉にとっぷりと浸かり、ちょっとばかり散歩に出てみることに。
浅間山荘には1階の大浴場のほか宿泊者専用の浴場がありますが、残念ながら今回は改装工事中。その足場の横には、鳥居に護られた浅間山の登山口。これからのシーズンには、山歩きのお客さんが多く訪れるそう。

広々とした駐車場では、かわいいわんこがひなたぼっこ中。僕の泊まる本館のまわりにはロッジやコテージが点在し、愛犬と一緒に泊まれるトレーラーハウスも。

さらには3頭の馬も飼われており、乗馬体験もできるそう。オートキャンプやバーベキュー場もあり、登山に温泉、アウトドアと浅間山麓の豊かな自然を様々な形で愉しむことが。

そしてなによりの贅沢が、眼前に広がるこの情景。パステルに染まる若き春の幼い青さ、そこに横たわる信州の山並みのたおやかさ。浅間山の6合目、標高1,400mからの絶景に、言葉も忘れしばし佇む。

春の訪れを感じさせるとはいえ、山の空気はまだまだ冷たい。少々身体も冷えたところで宿へと戻り、そろそろお昼を食べることに。こちらでは日帰り温泉とともにランチ営業もしているため、連泊でも安心。

大きな窓から差し込む陽光をほくほくと浴びつつ待つことしばし、注文したあったか土鍋ちゃんぽんが運ばれてきます。まろやかなスープに広がる野菜の甘味、それを吸ったもっちり麺。余熱でくつくつと沸く熱々を、猫舌なのも忘れはふはふいいつつ啜ります。

汗だくになりつつちゃんぽんを味わい、ふたたび自室で味わう畳の感触。ごろごろしつつ汗と満腹が収まったところで、午後の陽射しあふれる浴場へ。たっぷりと鉄分を含んだ茜色、揺れる湯面に映る空の青。ゆらゆらと絶えず姿を変える煌めきが、僕のこころを一層火照らせてゆく。

まろやかな浴感ながら、しっかりと力を感じさせる濃密なお湯。あっという間に汗が吹き出し、湯上がりもしばらく額からぽたぽた。そんな茹だった心身へと流し込む、きりっと冷えた至福の刺激。高地の爽快な風を浴びつつ味わうビールは、格別以外のことばが見つからない。

連泊ならではの甘美な贅沢にほんのり染まり、その余韻のまま寝転がる。角部屋を満たす陽のぬくもり、目をよろこばせる青空と白樺の対比の鮮やかさ。あたたかく、おだやかで。こんな時間に、いつまでもずっとずっと身を委ねていたい。

そんな願いは叶うはずもなく、刻一刻と陽射しの弱まりゆく空。漆黒に染まる山へと夕色が沈んでゆけば、もうまもなく夜の合図。暮れゆく空色を愛でつつ湯に浸かり、二晩目の宴に備えます。

そして迎えた、お待ちかねの夕餉の時間。食卓には、今宵もおいしそうな品々が。ふんわりだしの香るほうれん草ときのこのおひたし、ほんのりとした甘酸っぱさがここちよいわらびときのこの酢の物。こしあぶらのくるみ和えは、春の苦味をやさしく包む奥深い味わい。
山の恵みたっぷりの小鉢とともに、これまた絶品なのがクリタケのキッシュ。卵やチーズのコク深さ、そこにほんのりとただようクリタケのちょっとばかりの苦味。さっくりとしたパイの香ばしさとともに、豊かに広がる風味がたまらない。

山の幸に舌鼓を打っていると、熱々のふろふき大根が。みすみずしい大根を彩る、こくのあるピリ辛な肉味噌。ゆずの香りも爽やかで、じゅわっと広がる旨さに思わず笑みがこぼれてしまう。
そして今日のメインは、豚肉と山きのこ鍋。やさしいしょうゆのおつゆに、しっかりと染み出たきのこの風味。脂の甘い豚肉がその芳醇な旨味をまとい、じんわりとした贅沢が鼻からこころへと広がってゆく。

つづいて運ばれてきたのは、焼きたての牛のグラタン。さいの目に刻まれた牛や野菜の旨味が溶け出た、トマトベースのソース。熱々をおそるおそる頬張れば、爽やかな信濃の酒が欲しくなる。

これまた揚げたて、さっくさくの天ぷら。ほっくりとしゃっきりが共存するれんこん、ジューシーななすに甘いかぼちゃ。風味の良い舞茸と、軽やかな衣と熱が素材の旨さを引き出してくれている。そして何よりうれしい、採れたてのふきのとう。ちいさな体に込められた鮮やかな苦味と香りに、春という季節を噛みしめます。

おいしい品々に地酒も空っぽになったので、ここでご飯をもらうことに。ふっくらもっちり、甘みのあるおいしいお米。それをどんどん進めてくれる、ここちよい酸味と滋味をもつ野沢菜の古漬け。おだやかな風味ただようお味噌汁とともに味わえば、お米の国に生まれてよかったと素直にそう思えてくる。

そして〆にと運ばれてきたのが、抜群な旨さを誇る手打ちそば。艶やかな見た目通り、つるつるとしたのど越しと強いコシ。揚げられたそばの実の香ばしさがいいアクセントとなり、満腹ながらあっという間に平らげます。

本当に、ここのお宿のご飯は何を食べてもおいしい。大満足大満腹の宴を終え、あとはもうお湯とお酒に揺蕩うのみ。そんな夜のお供にと開けるのは、佐久は戸塚酒造の寒竹特別純米酒。甘酸っぱさのなかに香ばしさが薫り、ふわりと余韻が広がってゆくおいしいお酒。

ほんのりと佐久のお酒に染められたところで、濃密な人参色をした湯にも染まりにいくことに。身体を包む、こってりとした鉄泉。浴感はおだやかで、しかし心身の芯からぽかぽかぽかぽかと温めてゆく。本当に、すごいお湯が湧くものだ。

天狗が入ったところ、お湯が真っ赤に染まった。そんな伝説から名づけられた、天狗温泉。宿の看板や入口、館内にといろいろなところに立派な天狗があしらわれています。

しみじみと、静かに更けゆく信濃の夜。そんな贅沢な時間を彩るべくつづいて開けるのは、これまた佐久の木内醸造、初鶯純米吟醸生一本。口に含めばきりりと辛いが、すぐに甘味や酸味が追いかけ広がってゆく豊かなお酒。

ちびちびと地酒を味わい、気が向いたらふたたび湯屋へ。扉を開ければ、ふわりと鼻をくすぐるほんのりとした金属の香り。肩まで沈めば、おだやかながら力強さを感じさせるこってりとした浴感。湯口に付着した分厚い析出物が、この湯の濃厚さを眼でも味わわせてくれるよう。

今宵最後のお酒として選んだのは、塩尻の信濃ワインが醸す奏音赤辛口コンコード。その名のとおり、余分な甘さの一切ないここちよい辛口。含めば赤葡萄の皮の華やかな渋味が広がり、そこに実の部分のジューシー感が共存。これまで飲んだことのないタイプの旨さに、あらためて信州のワインの懐の深さに驚かされる。

地酒もワインもはずれがない。吞兵衛殺しの信濃の恵みに心酔していると、漆黒のなかを舞い落ちてゆく白い粒。窓辺へと駆けよれば、いつのまにかうっすらと雪化粧。
浅い春のパステルな青さを存分に浴びたかと思えば、今年はもう見納めしたと思っていた雪景色まで。この時期だからこその、冬から春へのバトンタッチ。その狭間を揺蕩うような感覚に、良いときに訪れることができたと静かな悦びをひとり噛みしめるのでした。



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