栗原市民バスの終点である自然薯の館前から宿の送迎車に乗り換え、さらに山へと分け入ること15分。ついに、ついに念願叶い『温湯温泉佐藤旅館』に到着。18年前の秘湯旅をきっかけに存在を知り、いつかはと思いつつ2度の震災で消えた灯火。それがまさか復活し、それを偶然に見つけこうして宿泊できるなんて。
昭和の雰囲気を色濃く残す帳場でチェックインし、これから3泊過ごす怠惰の城へ。今回予約したのは、花麗と名付けられた旧館のプラン。大正だろうか、それとも昭和初期だろうか。風雪や天変地異に耐えてきた歴史が、きれいに手入れされたお部屋から滲んでくる。
廊下からは、迫川の刻んだ谷と白く輝く残雪が。今は広々とした庭になっていますが、かつては対面に同じような木造建築がもう一棟建っていたはず。そちらは内陸地震で大きな被害を受け解体されたそうで、この棟が残っていることが奇跡としか思えない。
若き日の僕が一目惚れした建築に身を置ける。その深く静かな悦びを嚙みしめつつ作務衣に着替え、いざ温湯の湯とご対面。大中ふたつの内湯があり、翌日朝に男女が入れ替わります。
10時から23時までは、この大岩風呂が男湯。M字をした大きな浴槽には、無色透明のきれいなお湯がどぼどぼと掛け流し。中央には低い仕切りがあり、奥は熱め、手前は若干ぬるめ。まずは掛け湯をし、手前から。
静かに肩まで沈めば、体を包む穏やかな温もり。弱アルカリ性のナトリウム-塩化物泉は、ものすごく肌あたり柔らか。刺激がなく、圧のようなものも感じず。ふわふわと抱かれるような、それとも自分が溶け出すような。だらりと四肢を投げ出せば、そんな何とも言えぬ心地よさに抱かれます。
しばらくじっと浸かっていると、額から滲む汗。体がお湯に慣れたところで奥へと移動すれば、温度の違いからかちょっとばかりしゃっきりとした浴感に。若干ながら薄茶の湯の花も見て取れ、源泉の落とされているこちらの方がよりお湯の力を感じさせる。
無色透明で優しい浴感ながら、ものすごく温まるお湯。心身の芯から茹だり、全身からたらたらと汗を流しつつ飲むビール。春の浅さを感じさせるちらほら舞う雪が、冷たい金星を一層旨くする。
湯上りに心地よい苦味を喉へと流し、ぼんやり過ごす静かな午後。ひとり旅専用の市民バスを利用した送迎付きプランでは、バスの時刻に合わせて早めにチェックイン可。こうしてひとっ風呂浴びて放心しても、まだ時刻は14時前。この時間的余裕が、こころのゆとりにも直結する。
柔らかいお湯に揺蕩い、こたつに転がりうとうと微睡み。早くもそんな甘美な怠惰を3セットほど行き来していると、あっという間にもう外は真っ暗。もう一度湯屋に向かい頭を流し、来たる夕食に備えます。
そして迎えた、お待ちかねの時間。広間へと向かえば、食卓で待ち構えるおいしそうな品々。さっそく地酒を頼み、いざ開宴。
しゃきしゃき感とぬめりがおいしい長芋の甘酢漬け、しっとりとした鴨ロース。春といえばのふきのとうは2種類の食べ方で。酢の物は小粒だからかえぐみはなく、軽やかな苦みがふわっと駆けめぐる。ばっけ味噌はしゃきしゃきと噛むほどに春の香りが広がり、味噌のコク深さが堪らない。
郷土の味であるしそ巻きはぱりっと香りよく、菜の花のお浸しも春を感じさせる甘味とほろ苦さ。笹かまには岩魚が練り込まれ、きゅっとした凝縮感と魚の滋味深さがこれまた地酒にぴったり。
今回は鍋料理、焼き物、ご飯ものを選べるプランを日替わりで予約。今日の鍋物は、あつあつのおでん。薄味のおだしが染みたおでんは、まだ肌寒さの残るこの季節に嬉しいおいしさ。
そして焼き物は、岩魚の田楽。ほくほくとした身を彩る、甘ったるさのないすっきりとした味噌。呑兵衛殺しの山の恵みに、あっという間に1合が底をつく。
続いて焼き立て熱々を運ばれてきたのが、大好物の岩魚の塩焼き。ぱりっとした皮目の香ばしさ、淡白な身に宿る滋味深さ。全くくせのない上品な白身は、育てられた水の清らかさを感じさせるよう。
そして〆には、岩魚の漬け丼。熱々の白いご飯に載せられた、淡い鼈甲色の艶やかな身。もっちもちとした身からにじみ出る滋味とご飯の甘さの共演に、思わず笑みがこぼれてしまう。
温湯温泉のある栗原市は、日本の岩魚養殖発祥の地だそう。地の恵みを4種の異なる食べ方で満喫し、岩魚好きとしては堪らぬ満足感を抱きつつ自室へと戻ります。
あとはもう、お酒とお湯に揺蕩うのみ。そんな夜のお供に開けるのは、仙台は勝山酒造の仙臺驛政宗純米吟醸。仙台で育った吟のいろはを、仙台の水で醸したという駅限定のお酒。含めば心地よい酸味の後に甘味と旨味が広がり、宮城の酒の旨さを改めて思い知る。
旨い酒をちびりとやり、気が向いたら湯屋へ。誰もいないなか、ひとり静かに身を委ねる滑らかな湯。湯けむりを染めるぼんやりとした灯り、絶えず響く湯の落とされる音。このしみじみとした空間が、温湯の湯を素直に味わわせてくれる。
身体もこころも芯から解され、ほくほくとした湯上りの余韻をこたつで過ごすゆるい時間。続いてのお供は、大和町は大和蔵酒造の醸す雪の松島すっきり甘い純米酒。とろりとした口当たりとともに広がる、自然な甘味。穏やかで優しい甘さが、静かな夜を深めてくれる。
18年という時を越え、ようやく訪れることのできた山の宿。その静かでありながら濃密な感慨をひとり噛みしめ、春浅き花山での夜はゆっくりと更けてゆくのでした。
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