登場から30年を経てもなお、近未来の輝きを放つソニック。その振り子ならではの爆走に揺られること50分、日豊本線は宇佐駅に到着。秋晴れの青空に映える、神社を思わせる駅舎がお出迎え。

おしゃれな雰囲気の待合室でしばし時間を調整し、『大分交通グループ』の大交北部バスが運行する四日市行きバスに乗車。これから目指すは、僕が勝手にゆかりを感じているあの神社の総本宮。そう思うだけで、胸の高鳴りが止まらない。

のどかな田園風景のなか揺られること7分、宇佐八幡バス停に到着。全国に4万社余りもあるという八幡神社の総本宮である、宇佐神宮。この旅のルートを描いたとき、ここは絶対にお参りしたいと真っ先に途中下車を決めた場所。

さらさらと流れる寄藻川、そこに架かる神橋から先は宇佐神宮の神域。眩い陽射しに照らされた朱の欄干、その足元を支える漆黒の橋脚の対比が印象的。

神橋を渡りきれば、そこに広がる豊な森。静かな空気の流れる社叢の先には、ひときわ立派な表参道大鳥居が。先ほどの鳥居もそうでしたが、普段見るものよりも笠木の反りが大きく、よく見かける額束もない。この神社古来の様式で、境内の鳥居はすべてこの形になっているそう。

秋晴れのここちよいあたたかさに包まれつつ参道を進んでゆくと、白壁に朱塗りの柱が目を引く建物が。

中へと入ってみると、ずらりと飾られる絵馬。奉納された年代も異なるようで、それぞれに趣深い表情をしています。

手を清めようと絵馬殿の隣に位置する手水舎へ。この水盤は、国産の御影石で造られたものとしては国内最大だそう。社紋の左三つ巴を象った石からは、絶えず清らかな水が流されています。

表参道からいったん離れ、手水舎の前からのびる西参道へ。荘厳な森に抱かれつつ歩いてゆくと、屋根の架かる呉橋が。朱や金の放つ鮮やかさ、檜皮葺きの唐破風の渋い佇まい。線と色彩うつくしさに、眼もこころも奪われる。

格子の間から覗いてみれば、内部まで鮮烈な朱色一色に。その門は固く閉ざされており、現在は10年に一度の勅祭のときのみ一般公開されるそう。

この呉橋は鎌倉時代にはすでに存在していたそうで、現在の橋は400年ほど前に架けられたもの。その後明治昭和令和と改修を受け、いまなおその独特な弧を描く優美さで勅使を待ちつづけています。

橋から先へとのびる西参道は勅使街道の終点であり、かつては表参道として位置づけられていたそう。鳥居の奥には、その歴史を感じさせる町並みが。

豊かに茂る木々の葉を、圧倒的な力で透かす秋の陽射し。一気に明度の上がる緑の眩さ、それを受け一層荘厳さを増す朱塗りの社殿。この瞬間に訪れたあまりの鮮烈さが、胸の奥まで照らしてゆく。

池に浮かぶように佇む、苔むした石の舞台。ここは、神事の前にお祓いをする祓所という場所だそう。緑に染まる空間に小さな滝の水音が響き、なんとも幻想的な雰囲気に包まれています。

宇佐神宮には上宮と下宮があり、まずは近くに位置する下宮へ。その途中には、目を引く高床式の建物が。この高倉には、祭器具等が納められているそう。

そしていよいよ、この門をくぐり下宮へ。上宮と下宮には同じ神様が祀られており、かつては上宮が国家の神、下宮が民衆の神とされていたそう。

古くから庶民の参拝の場として、篤い信仰を集めてきた下宮。かつては御炊殿と呼ばれ、神前にお供えする食事を作る場所だったそう。荘厳さを漂わせる朱塗りと檜皮葺きの拝殿に、こうしてお参りできたことのお礼を伝えます。

下宮でのごあいさつを終え、鳥居をくぐり上宮へ。参道を歩いてゆくと、なんだか僕だけ逆行している気がする。ここでようやく気づきましたが、どうやら上宮からお参りするのが一般的な順路のよう。

まあでも細かいことは気にしない。木々に護られた石段を登りきると、参拝者を出迎える西大門。いまから280年ほど前に建てられたものだそうで、今年大改修が終わったばかり。あまりに絢爛な彫刻に、思わずその場に立ち尽くす。

そしてついに迎えた、この瞬間。日本で一番多いとされる八幡宮。だから当たり前といえば当たり前なのだろうが、物心ついたころから僕の近くには八幡さまがあった。
当時日本一と称されたお神輿が練り歩く、地元の八幡さまのお祭り。鳴り響く太鼓の音を聞きながら、境内に密集した出店で遊んだあの頃の記憶。そんな生まれ故郷での想い出もさることながら、いま住む地に越してからの初詣は毎年欠かさず大宮さんへ。
自分的には無宗教だと思っており、あまりそういう感性も鋭くない。でもなぜか、八幡さまだけは自分のなかで特別な感覚が。いや、特別というより親しみなのかもしれない。こうして旅していても、吸い込まれるようにして八幡さまには足が向いてしまう。

人生半ばにして、ついにこうして総本宮へと来ることができた。そのお礼を、荘厳な拝殿に心から伝える静かな時間。お参りを終えても、しばらくここから離れる気になれない。
朱塗りの鮮やかさを存分に浴び、力強い御神木の姿をこころに刻み。僕の勝手な思い込みに決まっているが、今日こうしてここに居ることがなにかしらの必然だとすら思えてくる。

優美さと力強さの共存する社殿としばし対峙し、あまりに鮮烈な世界観を眼にこころに灼きつけ上宮を後にすることに。その前にもう一度深呼吸し、朱の放つこの漲りを胸いっぱいに持ち帰ろう。

小高い小椋山に鎮座する上宮に別れを告げ、石段を下り菱形池のほとりへ。深い森のなか、ひっそりと佇む水辺の空間。先ほどまでの賑わいとは打って変わって、ここにはしっとりとした静けさが流れています。

勝手に親しみを感じてしまう八幡さまの総本宮、機会に恵まれこうしてお参りできて本当によかった。そんな感慨を胸に歩いていると、表参道からまっすぐのびる参道が。ここでは毎年8月1日に流鏑馬神事が行われるそう。

大鳥居をくぐり神橋を渡ると、駐車場脇に保存された小さなSL。かつてこの地には大分交通の宇佐参宮線が走っており、この蒸気機関車は60年前の廃線まで活躍した車両だそう。

思った以上に広い境内、お参りを終えたらもうお昼どきに。仲見世通りにはいくつかお店が並んでいますが、今回は事前に調べ気になっていた『杜の茶屋かくまさ』にお邪魔することに。

広いお土産売り場とお食事処といった昔懐かしい雰囲気のなか瓶ビールを飲みつつ待つことしばし、お目当てのはも天丼が到着。まず目を引くのが、このボリューム。食べきれるかなぁと、ビールを飲んだことをちょっとばかり後悔。
店員さんに言われたとおり天つゆを回しかけ、まずは主役の鱧から。見ての通り肉厚で、ほどよい弾力とふっくらの両立する魅惑の食感。鱧といえばの骨はまったく感じず、そして長い魚にありがちなクセや泥臭さなどどこにも見当たらない。
そんな豊前の海で獲れたという鱧を引きたてるのが、この食べ方。ご飯には少量の丼つゆがかけられており、土瓶に入った天つゆはかなりの薄味。関東もんの僕は最初こそ違和感を覚えましたが、この淡口が白身の良さを邪魔しないのだと食べすすめるうちに納得。
野菜の天ぷらも薄味により素材の味わいを感じられ、小鉢の煮物もまたいい塩梅。生活の場も旅先も濃口文化がほとんどの僕にとって、これまた西へと来たという実感がむくむくと湧いてくる。

はじめての大分の鱧の魅力に存分に満たされ、そしてやっぱり大満腹に。時計を見るともうすぐバスも来るが、歩いて行っても電車の時間に間に合いそう。ということで秋空の下、腹ごなしに散歩がてら駅まで向かうことに。

宇佐神宮の鮮烈さと大分の味の余韻に包まれつつ歩く、秋の午後。白い雲の浮かぶ青い空、田んぼを染める黄金と枯色。見知らぬ土地であるはずなのに、なぜだか郷愁を感じてしまう。

本当は、大分には寄らないはずだった。ぼんやりと行程を組みはじめたときは、門司から関西へと向かうつもりだった。でもあいにくフェリーは満席で、予約できそうだったのが大分神戸航路のみ。
そんなきっかけから、12年ぶりに訪れることとなった大分。だからこそ、こうして初めて宇佐へと来ることができた。この地で出逢えた濃密な記憶は、ずっと胸に残り続けるだろう。偶然という名の、必然。そんな不思議な縁を感じつつ、秋のあたたかな陽射しのなか歩みを進めるのでした。



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