12年の時を経て再訪することのできた別府。良い湯良い味良き情緒と、今回も本当に豊かな時間を過ごすことができた。次来るときは連泊、いや、湯治かな。そんな再訪の願いを熊八翁に託し、日本一の湯の街に別れを告げることに。

山陽本線、日豊本線と乗り継いできたJR九州の列車も、これでしばらく乗り納め。赤と黒の対比が鮮やかな813系で、一路大分を目指します。

別府から大分は思った以上に近く、3駅17分で到着。両駅を結ぶバス路線もあり、おさるで有名な高崎山や水族館のうみたまごに寄るならそちらのルートも便利かも。

初めて訪れる県都大分。まずは、かつて府内城のあった大分城址公園へ。大きなビルの並ぶ大通りを進んでゆくと、お堀端に建つ端正な表情をした西之丸隅櫓が。

本丸、東之丸、西之丸以外の建物は明治時代に壊され、遺された建物も空襲によりほぼ焼失してしまったという府内城。そんななか、土塀の中央に建つ宗門櫓は藩政時代を知る貴重な生き証人。

お堀沿いを歩いてゆくと、東之丸の隅に建つ着到櫓が。入城者の監視や大手門へと襲来してきた敵を迎え撃つ役割を担っていたそう。その前に建つのは、大分縣道路元標。かつて城跡に県庁が置かれていたそうで、ここが大分県内の道の起点とされていました。

お堀を渡り、正面玄関である大手門へ。現在は土橋になっていますが、かつてはここも内堀が繋がり屋根のついた廊下橋が架けられていたそう。

大手門をくぐり西之丸へ。外からは1階建ての平櫓に見えた宗門櫓は、内側に回ると実は2階建て。当時は2階の扉へとつながる石段が設けられており、中には江戸時代の戸籍簿である宗門帳が納められていたそう。

西之丸と本丸の間には内々堀が廻らされていたそうですが、現在は埋め立てられ大部分が駐車場に。それを横目に見つつ進んでゆくと、四層の天守が築かれていたという天守台が。その天守は江戸中期に焼失し、その後再建されることはなかったそう。

この府内城は、築城当時は海に面した海城であったそう。現在は埋め立てられ陸地のなかとなっていますが、かつてはこの目の前に海が広がっていました。

天守台で往時の城下町の姿に思いを馳せ、西之丸から山里丸へ。そこに架かるのは、屋根付きの廊下橋。府内城内にはこの場所と先ほどの大手門前のほか、本丸と東之丸とを結ぶ3ヶ所に架けられていたそう。

これまで復元された廊下橋をいくつか目にしましたが、城主専用ということで格式のためにそうなっているのかと思っていました。ですが実はこれも、お城の護りのひとつ。外部からの視線を遮り城主の移動を隠すとともに、敵の攻撃から身を守り城外へと向け攻撃ができるようにとこの造りになっているそう。

かつては月見や茶の湯、能などが営まれていたという山里丸を抜け帯曲輪を歩いてゆくと、お堀の対岸には府内城にもうひとつ残る江戸時代からの遺構である人質櫓が。

さらに進んでゆくと、広々とした内堀に重なり合うようにして張り出す石垣が。手前の扇形に組まれた石垣は、府内城の鬼門除けのため隅に角をつけないようにとこの形に組まれているそう。

護りの堅さを感じさせる重厚な石垣が印象的な府内城を後にし、そろそろ駅方面へと戻ることに。その道中、十字架片手に手を伸ばす神父の銅像が。ここ大分は、フランシスコ・ザビエルが日本で最後に布教した地。あまりにもイメージの強い教科書の絵と印象がかけ離れていたため、説明を読んでようやく気づきました。

今宵の宴の友を選ぼうと、地元の百貨店であるトキハ本店へ。その隣には、旧二十三銀行の本店として建てられた大分銀行赤レンガ館。大正2年に竣工し、戦災で外壁を残して消失するも昭和24年に再建、平成27年まで銀行の店舗として使われていたそう。
はじめて訪れることのできた大分の街。駆け足ながら府内城や街並みを愉しみ、今度は泊りで来ようと再訪を願いつつ駅を目指し歩みを進めるのでした。



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