良き時間になったところで、今宵の宴を始めることに。美観地区から大通りを一本隔てた、こちらも古き良き町家が残る阿智町。国指定重要文化財にも指定される大橋家住宅。その長屋門の一画を改装した、『鬼の厨しんすけ』にお邪魔します。
飴色に鈍く輝く太い梁。店内を満たす木の重厚さに目を細めつつ、ぐいっと味わう冷たいビール。今日一日、よく歩いた。そんなご褒美を喉へと受け取っていると、お通しの鰆の真子とたけのこの煮物が。
生まれて初めて食べる、鰆の卵。どれどれと、好奇心を掻き立てられつつひと口。うわぁこれ、大好きなやつ。シルキーであり、ほっくほく。魚卵特有のクセはなく、それでいてしっかりと凝縮されたこっこの滋味。たけのもこも風味よく、それらを彩る上品な薄味がまた心憎い。
さっそく岡山の地酒に切り替え、続いてお刺身5種の盛り合わせを。
まずは瀬戸内といえばの鯛を。もっちりとした身に宿る、深い旨味と甘味。しっかりとした白身の良さがありつつも、ありがちな泥っぽさは全く感じられない。瀬戸内に来て毎回思うこと。この地の鯛に一体何が起きているのだろう。
続いて、その透明感からも鮮度の良さが分かるしまあじを。こっりこりの食感、そして広がる上品な脂の甘味。愛媛産だという鯖は、〆られているにもかかわらずものすごくフレッシュでジューシー。生に近い味わい、そして臭み全くなし。ちょっとこの鯖の旨さには驚いた。
奥の小皿に乗っているのは、ひらの酢じめ。岡山のみで食されるというひら。非常に小骨が多い魚だそうで、細く切った身を絶妙な塩梅の酢で味付け。初めての魚に期待しつつ食べれば、これまた絶品。淡白でありながら、上品かつ深い味わい。お酢の風味が心地よく、ひと口ごとにおちょこが進んでしまう。
そしてやっぱり、岡山といえばの鰆。これまで見たことのない艶やかな身の色、えっ⁉と思うほどの厚切り。しょう油に付ければさっと脂が広がり、これは間違いなく旨いやつと確信しつつ口へ。
その刹那、思わず漏れてしまうため息。何だろう、こんな豪快な食べ方なのに全く嫌味がない。しっかりと載った脂の甘味、赤身の青魚とは思えぬクセのなさ。もはやこれは、魚を超えて魚じゃない。生魚があまり得意ではない相方さんと、そんな意見で一致するほど。
続いて注文したのは、これまた瀬戸内へと来たら食べたい地だこ。天ぷらと激しく迷いましたが、今宵は唐揚げで。ひと口噛めば、じゅんわりと溢れるたこの滋味。ぷりっと弾力があり、しかしながら硬くはない。この絶妙な旨さ、瀬戸内の海には何かしらの謎の力が宿っているに違いない。
魚介が続いたため、ここで相方さんの好物であるだしまき玉子を。分厚い玉子をナイフで切れば、じゅわっと溢れ出す透明なだし。熱々をふるりと頬張れば、いま自分は西日本にいると実感できる至極の上品さが口中にほとばしる。このだし味、東京では出逢えないんだよなぁ。
先ほどの鰆が抜群に衝撃的だったので、追加で頼んだカマの塩焼き。パリッと香ばしく焼けた皮を破り、ふんわりとした身をパクリ。舌の上に広がる豊潤な脂、よく動かす部位だからこその濃い旨味。
ちょっとこれは、身の焼き物を食っている場合じゃないな。肉派の相方さんと共に、二人して無言で一生懸命つついてしまう旨さ。
初めて訪れる倉敷、このお店して大正解。期待を遥かに超える旨さに心酔し、岡山の酒にもしっかり酔ったところで腹ごなしのお散歩へ。
観光客で賑わう昼間とは一変し、静けさに包まれる夜の美観地区。灯りを映す白漆喰、経た時の長さを感じさせる木のぬくもり。そこに締まりを与えるなまこ壁、そんな町家の並ぶ街をそっと見守る明るい月。
人の往来もぐっと減り、魅せる街から人々の暮らす素の表情へ。夜闇に浮かびあがる美観地区の艶やかさに、思わずひっそりと感嘆の声をもらしてしまう。
ときおり現れる観光客も僕らと同じことを感じているのか、話し声もほとんどなく静寂に包まれる夜の街。それはそうだろう。こんな世界観に抱かれれば、情景の深さにこころを奪われずにはいられない。
岡山の酒に火照った頬を、さらりと撫でてゆく涼しい夜風。耳へと届く葉擦れの音、灯りを映す水面の煌めき。泊まった者のみが味わうことを許される、胸の深い部分を染めゆくうつくしさ。
ライトアップされ、より深みを増す町家の面持ち。漆喰、瓦、木の格子。それらの風合いがより一層浮かびあがり、見る者の眼を通してこころまで奪ってゆく。
この倉敷川により、繁栄がもたらされた美観地区。町家の白さを映す、漆黒の水面。その深く静かな表情に、思わず吸い込まれてしまいそう。
やっぱり倉敷に泊まって正解だった。旨い酒、善き肴。そして全身で浴びる、夜の情緒。一夜を過ごしてこそ、その街を少しばかり知ることができる。四十半ばにして、ようやく訪れることのできたこの街。この輝きを、感慨とともに胸に閉じ込めて持ち帰ろう。
夜の美観地区の情緒を存分に浴び、ホテルに戻りひとっ風呂。大浴場で今日の疲れを洗い流し、湯上りに味わう冷たいビール。岡山は宮下酒造の醸す、独歩缶ホワイトエール。フルーティーでコクのある味わいが、火照った体にすっと沁みる。
続いて開けるのは、岡山の誇る酒造好適米雄町を使ったワンカップ。同じく宮下酒造の、極聖おかやま雄町米純米吟醸カップを味わうことに。すっきりと飲みやすく、それでいてお米の旨さを感じるお酒。この旅で改めて実感。岡山も本当に酒の旨いところだ。
讃岐うどんを味わい、玉藻公園やこんぴらさんを経て本州へ。烏城の威厳に圧倒され、美観地区では昼夜異なる魅力に染まり。そして何より、瀬戸内の魚には毎度のことながら度肝を抜かれる。そんな今日という日の濃密さをつまみに、旨い酒とともに夜はゆっくりと進んでゆくのでした。
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