新花巻から白銀の車窓にこころを染められ45分、自分的節目に訪れてきた大切な宿『大沢温泉湯治屋』に到着。約3年半ぶり、6度目の宿泊。それも今回は、初めての冬。雪積もる谷底に佇む、江戸時代築の湯宿。そのあまりの渋さに、早くもこの季節に来てよかったと確信してしまう。
玄関を入れば、3年超の時を感じさせぬ慣れ親しんだあの空気。早くも帰ってきた感にほっと一息つきつつ帳場で手続きし、さっそくお部屋へ。これまでと同じく中舘ですが、今回は初めてとなる1階。この階に宿泊している人しか通行しないため、ひっそりとした雰囲気がまた堪らない。
割り当てられた一号は、中庭側の角部屋。仕切られた障子から雪の白さがふわりと室内へ流れ込み、これから過ごす2泊への期待というものを優しく盛り上げてくれる。
この宿は、昔ながらの積み上げ算式を維持する無駄のないスタイル。今回はネット限定プランでお布団込みだったので、浴衣に丹前、そして灯油ストーブだけ借用。こたつは借りませんでしたが、コードのみ撤去し布団はそのままなのもありがたい。
さっそくファンヒーターで部屋を暖め、浴衣に着替えてこの旅最初の一浴へ。廊下へと出れば、吐く息が白くなるほどの寒さ。大正時代の写真にはすでにその姿が残るこの中舘、冬の寒さは本気だった。
うぅ、寒い寒い。そう呟きつつ向かうのは、この宿の顔である大沢の湯。さらさらと流れる豊沢川沿いに設えられた巨大な露天には、熱い源泉がざばざばと掛け流し。
立ちのぼる湯けむりからはほんのりとした湯の香が漂い、肩まで沈めば全身を包む滑らかな浴感。無色透明ながらとろりとした湯は、アルカリ性単純温泉。単純温泉というと何となく物足りないイメージを持ってしまいがちだが、この湯の美肌効果と温まり方の強さはもう何度も経験済み。
もうもうと立ちのぼる湯気越しに、ふわりと覗く茅葺屋根の菊水舘。山も川岸もその屋根も、すべてが白く雪化粧。浅い春や初夏、そして秋。これまで出逢ってきた表情ともまた違う、この季節ならではの凛とした情緒。水墨画のような静の世界は、冬だからこそ味わえる特別なもの。
熱めの大沢の湯に芯から温められ、ほくほくとした心もちで戻る自室。そんな湯上がりを、より華やかにしてくれる冷たいビール。喉へと流す爽快な苦みに、日々のあれこれなど霧散してゆく。
階上からときおり足音が聞こえる以外、しんと静まり返る広い部屋。ファンヒーターの風音のみが響く部屋、ビールを飲み干し次なる儀式。好みの場所に自分で布団を敷いた瞬間、湯治の甘美が幕を開ける。
なんだろう、大沢温泉には本当に溶かされる。あっという間に夕刻を迎え、狭い谷底を夜の色が染めてゆく。旅館部の山水閣にある豊沢の湯で頭を流し、湯上りの火照りも去ったところで早めの夕食にでも向かおうか。
時刻は17時半前、旅館料理の出ない湯治屋ではみんなが思い思いに夕餉の準備。雪の中、煌々と灯りを漏らす炊事場。4泊2回に6泊と、自炊湯治したあの日々が懐かしい。今回は2泊のため食堂にお世話になるけれど、いつかまたあの世界観に包まれたい。
三十代にこの地で刻んだ温かい記憶に包まれつつ、今宵の宴の会場となる食事処やはぎへ。朝昼晩と営業しているこの食堂があるからこそ、大沢温泉に気軽に泊まりに来ることができるのです。
きりりと辛い地元花巻の酒南部関を頼み、ちびりとやっていると冷奴が到着。固めのしっかりとした豆腐は豆の味がきゅっと込められ、ひんやりとした旨さがはやくも地酒を進めてくれる。
前回、前々回と似たようなものを頼んだので、今回はこれまで食べたことのないものをと天ぷら盛り合わせを注文。ぷりっとした海老にほくほくの鱚、れんこんやなす、かぼちゃといった野菜もさっくりと揚がっており、これはまたいいつまみ。
流されていた夕方のローカルニュースをぼんやり眺め、じんわり飲み進める穏やかな時間。はぁ、心地いい。ゆるりとした宴もお酒が尽き、〆にとおそばを注文します。
今回予約したネット限定プランは、夕食のおそばと朝食付き。おそばは細めの更科と太めの田舎があり、さらにかけともりが選べるのも嬉しいところ。激しく悩んだ結果、今夜選んだのは更科のかけ。
そば粉のみで打っているこの水車そば、十割とは思えぬつるりとした食感とこしが魅力。細い更科をするりと手繰れば、ふんわりと広がるそばの風味。それを邪魔しない塩梅のおつゆとともにお腹へと落ちてゆき、その温もりに体の芯から満たされる。
本当に、ここのおそばは旨い。最後の一滴まで平らげ、大満足で自室へと戻る道。障子から漏れる温かい灯りに包まれ、こころの奥まで大沢色に染められてゆく。
あとはもう、お酒と岩手の夜に酔う時間。そんな雪夜のお供にと選んだのは、僕の大好きな酔仙酒造の醸す岩手の地酒特別純米酒。震災により蔵は陸前高田から大船渡へと移りましたが、こうして旨い酒を飲ませてくれることが本当に嬉しい。
お米の旨味をしっかりと感じる酸味やコク、そしてキレのバランスが良いおいしいお酒。そしてそれを一層引き立ててくれるのは、巖手屋のひきわり納豆せんべい。
ほんのりとした塩気の軽やかな南部せんべいの上に散らされているのは、秋田はおはよう納豆のひきわり納豆フリーズドライ。さくっと噛めば口の中で納豆が活力を取り戻し、想像を軽く超えてくる本格的なねばりや豊かな旨味、豆の香ばしさ。こりゃいかん。岩手と秋田の最強タッグに、酔仙がぐいぐい進んでしまう。
速まりそうになる湯呑酒のペースを必死に抑え、ほんのり心地よくなったところで再び湯屋へ。今は大沢の湯は女性専用時間帯、向かうのは若葉荘に位置する薬師の湯。
石張りの床に設けられた、熱めとぬるめのふたつの湯舟。緻密に貼られた小さなタイルが肌に心地よく、とろりとした湯の感触とともに心身をほぐしてくれる。箱庭のような世界観の大沢の湯、渓流と木々がダイナミックに広がる豊沢の湯。それらとはまた違う、湯治部らしい渋い佇まい。毎度のことながら、その濃密さに心酔してしまう。
湯けむりに満ちたレトロな湯屋で温められ、ひとり静かに夜の宴の続きを。三陸の旨い酒は明日へと半分残し、続いて開けるのは最近恒例となった地のワイン。
地元花巻のエーデルワインが醸す、コンツェルト白。岩手県産のリースリング・リオンを使用したこのワイン、ひと口目から驚く旨さ。酸味は穏やかながら、きりりと辛口。口に含めば白ぶどうの奥ゆかしくも華やかな香りや甘味、そして渋みが広がる。ちょっとこれは、これまで飲んだことのない味わいだ。
ふくよかだ。今回も本当に、満たされる。30歳で初めて出逢い、それから自分的節目に訪れてきた大切な宿。初めてここで過ごす雪の夜、凛とした寒さがこの宿の持つ温もりを一層引き立てる。
初めて訪れた、冬の大沢温泉。また新たに知ることのできた表情に触れ、静かな夜とともにこの宿への想いはじんわりとしかし確実に深まってゆくのでした。
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