坂と小路の入り組む渋の湯の街をのんびり楽しみ、丁度よい時間になったところでチェックイン。今回も『湯本旅館』にお邪魔することに。渋温泉のシンボルとも言える外湯、大湯の真隣に位置する老舗旅館。その歴史を思わせる渋い外観が、この時期ならではの桜に彩られています。
大正時代築の建物へと足を踏み入れれば、そこかしこに感じるその年輪。柱や床は磨き抜かれて鈍い輝きを放ち、渋の街の風情がそのまま建物内へと流れ込んでいるかのよう。
そんな渋いロビーを抜け、一夜限りの夢の部屋へ。こちらに宿泊するのはこれで4度目ですが、この部屋は今回が初めて。これまでよりもかなり広いお部屋で、ひとりで使うのがもったいないほど。
中庭を望む大きな窓もさることながら、古い木造建築の良さをしっかりと感じさせてくれる和室の風情がたまらない。10年前に初めて泊まって以来、この渋く穏やかな雰囲気が恋しく何度もやってきてしまうのです。
和室の落ち着きにつられ、危うくそのまま腰を落ち着けてしまいそうに。ふと我に返り浴衣に着替え、待望の渋の湯へ。こちらの旅館には源泉の違うふたつの浴場があり、まずは露天風呂へと入ります。
こちらはフロントで鍵を貸してもらう貸切制。うっすら、ほんのりと茶色く濁ったお湯が、惜しげもなく岩風呂に掛け流されています。その見た目通り金気を感じさせる淡い香りが漂い、お湯に入る前からその濃さが分かるよう。
たっぷりと掛け流される加温加水なしの源泉。渋の湯は熱いのが特徴なため、このお湯もやはりちょっと熱め。すぐに入るには熱すぎるため、掛け湯を何度かし体を慣らしてからゆっくりと入ります。
肌に感じるちょっとしたキシキシ感と、鼻をくすぐる湯の香り。小ぢんまりとした坪庭風の湯船に身を沈めれば、五感をゆっくりと満たす心地よさ。展望や開放感はないが、この空間だからこそ味わえるこの雰囲気。
久々の熱い渋の湯に体も心も火照ったところで、こちらもお待ちかね、湯上がりのビールを。館内に自販機がないため、久々に部屋の冷蔵庫から瓶ビールを抜きます。
そう言えば、栓抜きを持つのも久しぶり。冷たい瓶に手を添えて王冠をこじれば、シュッという小気味良い音と共に漏れ出す白い冷気。あぁ湯上がりに瓶ビール、なんて贅沢なんだろうか。最近では缶ビールばかり飲んでいますが、これは瓶ビールだからこそ味わえる感覚。
散々言われつくしたことですが、やはりビールは瓶が旨い。ラガーの苦みを刺激と共に喉へと流せば、心地良い冷たさが火照った体の芯へと落ちてゆくのを感じます。
今回はあっという間の一泊二日。いつもなら本を片手にビールを楽しむところですが、敢えて本は置いてきました。もう本当に気の向くまま、予定なし。ビールを飲み終えてしまえば、あとはもうやることなどありません。
ほんのりとした心地よい酔いを感じ、ばたんと寝そべる怠惰な午後。湯上りの肌に感じる畳の感触は、これを味わいたいがために温泉旅をしていると言っても過言ではないほどの贅沢。
このうえない自堕落な幸せを貪り、気が向いたところで再びお風呂へ。今度は内湯へと向かいます。こちらはこの宿の源泉から湧き出たお湯が掛け流され、その溢れ具合はかなりのもの。見るからに豊富な湯量と鮮度の良さを感じさせます。
さて、いざ入浴。といきたかったのですが、この日は熱いのなんの。これまで露天風呂は熱くても内湯は適温だったため、完全に油断していました。いやいや、熱くて全然入れない。
仕方なく水で調整しつつ掛け湯でなんとか体を慣らしてゆくことに。それでもいつまでたってもぬるくならないので、十二分に掛け湯をしたところで意を決して足を入れてみます。
熱い、熱い、でも今なら何とか入れる。そう思い肩まで慎重に沈めれば、熱いながらも感じる心地よさが。温泉とは不思議なもので、熱くても入れるものや、ぬるめでも湯あたりするものなど様々。だから、おもしろい。
いやぁ、今回は外湯並みに熱いぜ。渋温泉が熱い湯であることを承知の上で訪れているので、これはこれで楽しい。でも初めてだったら、きっと心が折れていたかも。
なかなかひかない汗に渋へとやってきたという実感を重ねつつ、のんびりと過ごす夕刻のひととき。気付けばもう夕食の時間となりました。こちらは2名までならお部屋食。自室に大きなお膳が運ばれてきます。
お造りは紅鱒のたたき。普段お刺身で出されることの多い鱒ですが、こうして食べるとまた違ったおいしさに。しょうがやねぎの風味をまとい、鱒の旨味もより感じやすくなるという、とてもおいしい食べ方。
その隣はこの宿の名物であるきのこ饅頭。きのこや玉ねぎのたっぷりと入った薄味のだしが入った器を、信州名物おやきの生地で蓋をして蒸しあげたもの。
まずはふわふわの饅頭部分をそのままひと口。ほんのりとした甘味と素朴な粉の味わいがシンプルに旨い。そしてそれをちぎりスープに浸して。きのこの旨味のしみ出たスープが、生地の甘味と好相性。毎回出てくるメニューですが、毎回おいしい。これを食べると、あぁ湯本旅館、という気分に。
お鍋はボリュームたっぷりの豚しゃぶ。あっさりとぽん酢でいただきます。この豚も肉質がよく、白身の甘味をしっかりと感じられます。しゃぶしゃぶといえば豚派の僕にはたまらない。
小鉢は2種類あり、ひとつはクリームチーズ豆腐。といっても乳臭いことはなく、程よい酸味と適度なコクのバランスが丁度いい美味しさ。熱々のお鍋やお酒で火照った口をさっぱりとさせてくれます。
もうひとつは、サーモンとりんごの胡麻ドレッシング掛け。分厚く切られたりんごとサーモンが重ねられており、食べるまでは合うのかな?と思っていました。が、これがもうドンピシャ僕好み。脂のあるサーモンと甘酸っぱいりんご、そのふたつを胡麻の風味がよくまとめています。今度家で真似してみる気満々です。
銀色の包は鮭のホイル焼き。鮭にきのこ、玉ねぎの旨味に信州の味噌が絡み、冷酒との相性もぴったり。天ぷらにはこの時期に嬉しい山菜が。からりと揚がった衣を噛めば、ふきのとうや姫竹の香りが春の訪れを教えてくれます。
数々の美味しい品々で冷酒を味わい、お腹も心も満足したところで〆のご飯を。こちらでは焼きおにぎりにだしを掛けたお茶漬けで締めくくります。
表面は焦げたしょう油の香ばしさ、中は白いご飯のふっくらとした甘さ。丸い焼きおにぎりを崩しながら食べれば、このふたつの美味しさが口の中で交互に訪れます。
お湯もいい、お部屋もいい、だけどやっぱりご飯がおいしい。鱒やりんご、きのこに山菜など、そこかしこに信州の美味しさが込められている。この信州を感じるお膳があるから一泊でもやってきたいと思え、そして一泊でも満足できるのです。
いやぁ、なんだか今日は濃いぞ。信州味噌ラーメンから始まり、幼馴染みとのロマンスを味わい、熱い渋の湯と信州の味を愉しむ。これだけやっても、まだ19時過ぎ。渋の夜はまだ始まったばかり。濃厚な旅の夜の予感を感じつつ、一夜限りの夢がゆっくりと幕を開けるのでした。
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