渋の温泉街の風情と熱い湯を味わい、すっきりと迎えた朝。この日の天気予報は雨。まだ降り始めてはいませんが、中庭から望む空にはすでにその気配が感じられます。
時刻はまだ6時台。ひと汗流そうと早速朝風呂へ。うわぁっ、熱っ!昨晩よりも更に熱く、もう掛け湯だけで断念。これは僕の修業が足りん。もっと湯巡りをせよ、というお告げなのかもしれません。
あっついあっつい湯で頭の芯から目覚め、やることもなくぐうたらな時間を過ごしていると朝食の時間に。焼鮭に冷奴、海苔にサラダとほっとする美味しいおかずが並びます。
そして嬉しいのが三種のそばの食べくらべ。きのこや揚げのたっぷりと入った熱いおつゆに、そば切り、そばの実、そばがきと三種のそばを入れて温めて頂きます。それぞれ食感の違いがおもしろい。朝からちょっと得した気分になります。
味良し、お湯良し、風情良し。三拍子揃った湯本旅館。東京からたった2時間半でこの満足感。一度この手軽さ、それに相反する濃厚な旅情を味わってしまうとクセになる。きっとまた、来るんだろうなぁ。本当に疲れたら、また来よう。疲れなくても、また来よう!
僕は基本的には見知らぬ宿や土地に行きたがる性格。だからこそこうして何度も訪れる宿や街は多くはありません。でもやっぱり来てよかった。繰り返し訪れるのには、何か理由があるはず。でもその理由なんてどうでもいい。呼ばれるように行きたいと思ったときが、行きどきなのです。
そういえば、渋に来るときはこれまで必ず突発的、衝動的、発作的。もう無理!!と思ったときにいつも受け止めてくれるのが、この街、このお湯、そしてこのお宿なのかもしれない。
そして今回も救われました、ありがとう。こうして毎回帰りの足取りが軽いことこそが、僕がここへと来てしまう理由なのかもしれない。たった一泊でも洗われる。この特効薬は、とっておきの時のために大切にしよう。
帰りは下り坂。渋温泉から20分程の散歩を楽しみ、『長電』湯田中駅に到着。ホームには乗車する特急列車、スノーモンキーがすでに停車しています。この車両は以前成田エクスプレスとして使われていたもの。通学路でよく目にした車両との再会に、昨日に引き続き懐かしさが込み上げます。
スーパーひたち、スーパービュー踊り子など、JR発足後、そしてバブル期ならではの勢いのある時代に登場したこの車両。外観も内装も当時としては斬新なもので、子供心に強烈な印象を感じたものです。
そんな当時最新鋭、国際空港行きの特急列車も今はのんびり長野の地を行ったり来たり。それでも当時と変わっていないのは、外国からの観光客をたくさん乗せているということ。温泉に入る猿を見に、多くの外国の方がこの地を訪れています。
昔も今も国際色豊かな列車に揺られ、権堂駅に到着。次の目的地である善光寺へは、長野駅まで行かずに権堂駅で下車する方が便利。本来は善光寺下駅が最寄りなのですが、特急は停まらないのでご注意を。
権堂駅からアーケードを抜けると、そこはもう善光寺さんへの表参道。石畳風の舗装に、両側に並ぶ蔵造り。この地が古くから門前町として栄えてきた歴史を匂わせます。
そして訪れる度に毎回見てしまう、善光寺郵便局。風情ある参道に溶け込む姿はとにかく印象的。郵便局らしからぬ重厚な木造建築は、何度見ても飽きることがありません。
車道が途切れ、両側に宿坊が並ぶ姿へと変化した参道。いつか宿坊に泊まってお参りしてみたい。そんなことを考えつつ歩くと、立派な門が現れます。こちらは仁王門、大正時代に再建されたものだそう。阿吽の仁王さまが両側で睨みを利かせています。
仁王門を過ぎると、参道の雰囲気は一変。両側には仏具屋さんやお土産屋さんが並び、一気に賑わいが増します。店頭に並ぶ山菜や味噌、漬物を見て歩けば、色々と買い込みたい衝動に駆られそう。でも列車旅なのでここはグッと我慢。
賑わう門前町を抜けると、そこには見上げるほど大きな山門が。額の善光寺の文字には、5羽の鳩が隠されているそう。そして「善」の文字はよく見ると牛の顔。牛に引かれて善光寺参り、牛と縁があるお寺です。
長い参道を抜け、ついに本堂へと到着。300年以上も前に建てられたというこの建物ですが、その内部の広さにまず驚き。木造での巨大空間は、大工さんの仕事の結晶そのもの。
お参りだけなら無料でできるのですが、ここはやはり拝観券を買い内陣へと入ることをお勧めします。というのも、その空気感は圧倒的なものだから。
内部には極楽浄土の世界を表現した豪華絢爛な装飾が施され、高い天井に薄暗い空間と相まって独特な雰囲気に包まれています。畳敷きの内陣に静かに座れば、吹き抜ける風と香るお線香の香り。視線を上げれば、金色に輝く二十五菩薩像が。
その菩薩様たちの中で、ひとつだけ誰も乗っていない蓮台が。それはここを訪れた人々を極楽へ導くためにと用意されたもの。無宗派、全ての人々を救うという、古くからの善光寺さんの思想そのもの。
正直、僕は本当に仏教というものに縁がなく、お寺にお参りしても建物に目が行くことがほとんど。でもごく稀に、何かを考えさせられるような感覚を味わうことが。善光寺さんはそんなお寺のひとつ。長野へやってきたら、必ずお参りしたい。いや、しなければならないと、無性に思うのです。
内陣で荘厳な空気に包まれ、今度は地下へと潜るお戒壇巡りへ。真っ暗な中手さぐりで進み、錠前に触れることができれば御本尊とご縁が結べる、というもの。
これまでも来るたびにお戒壇巡りはしましたが、今回は文字通り人っ子一人いない、本当のひとりぼっち。全く視界の利かない真っ暗闇、鼓膜を押しつぶしそうな沈黙。
お戒壇巡りでこんなに「怖い」という感情を抱いたのは、今回が初めて。ここ数年、ひとりでも怖くない、全然平気。そう奢っていた自分が戒められたような気が。
善光寺さんは、訪れる度に優しく迎えてくれ、そして何かを気付かせてくれる場所。きっと僕は、渋の街と共に善光寺さんにも呼ばれるときがあるのかもしれません。
やはり今日、こうしてここへ来てよかった。色々と思うところがありつつ、お戒壇巡りを終えて外へと出ます。荘厳な本堂を彩るかのように、咲き乱れる色とりどりの花たち。黄、白、桃。淡い春の色彩は、ほんの少しだけ気持ちを優しくしてくれます。
時刻は12時。信州の遅い春に囲まれた鐘楼からは、重厚な鐘の音が響きます。その音色は心臓を伝わり、心の奥まで揺さぶるよう。
この地を訪れるのもこれで4度目。近くて手軽だから、なんとなく来たいから。そんな理由では片付けられないなにかを、ここに来るたびに感じてしまう。そして今回も、僕はこうして善光寺さんに優しく包み込まれるのでした。
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