障子から溢れる明るさに目覚める、奥鬼怒の朝。まだちょっと早いかな。いや、目覚めたときが善きタイミング。そう思い窓辺へと立てば、若い紅葉を透かし力強く昇る眩い朝日。
その漲りに誘われ、冷涼な空気の流れる露天へ。硫黄の香漂う湯けむり越しに眺める、朝日を浴びて煌めく滝の流れ。囲む木々の緑があまりにうつくしく、包まれる空気感に神々しさすら感じてしまう。
雪見の湯、石楠花の湯、滝見の湯。それぞれ違う角度から朝日の力を全身に浴び、お湯と緑の鮮烈さに身体もこころも火照り気味。そんな湯上がりのひとときを、静かに包み込んでくれるログハウス。早起きしてよかった。奥鬼怒のおいしい水片手に、胸の奥まで潤いが行きわたるのを感じます。
初めて訪れた八丁の湯だけれど、やっぱり連泊にして正解だった。ここはゆっくりじっくり、静かに過ごしたくなる宿。なんだか本当に、のんびりできたな。
5時台に起きたため、のんびり朝風呂に揺蕩ってもまだまだ時間はたっぷり。布団に転がり名残りの怠惰に身を委ね、奥鬼怒での残された時間を噛みしめます。そして迎えた、朝食の時間。食卓には今朝もおいしそうな品々が並びます。
実山椒が効いた風味豊かな牛のしぐれ煮、こりこりの山くらげにひじきや高菜と、どれもご飯に合うものばかり。お味噌汁の代わりには、塩鱈となめこの塩鍋仕立て。鱈の滋味となめこの風味がおだしに浸みだし、穏やかなそのおいしさにお腹の底からじんわりと温められます。
おいしい朝食に満たされ、荷物を整理しつつお腹を落ち着けたところで最後の一浴へ。硫黄の香と湯の花漂う滑らかな湯との戯れをこころに刻み、名残惜しくも満足感に包まれチェックアウト。
送迎バスの時間よりちょっとばかり早く宿を出て、目の前を流れる鬼怒川へ。朝日のまだ届かぬ黒々とした河原と、陽射しを浴びはち切れんばかりの眩さを放つ若い緑。その対比の鮮烈さに、思わず言葉も忘れ息を呑む。
そして振り返れば、眼をこころを灼くこの光景。宿を抱く山は隅々まで鮮緑に染めあげられ、あまりの瑞々しさに胸の奥の深い部分がギュッと掴まれるよう。僕は、凄いところに来たんだな。できることなら、今度は紅葉の時季にも来なければ、だな。
奥鬼怒の持つ緑の力強さにこころを打たれ、再訪を強く強く誓い送迎バスに乗り込みます。未舗装路のワイルドな道のりを愉しんでいると、車は停まり運転手さんの案内が。遥か遠く、山間の谷底にぽつんと佇む八丁の湯。こうして見ると、その秘境感がより一層伝わるよう。
いくつものカーブを器用に下り、30分掛けて送迎バスは女夫渕駐車場に到着。ここで一旦お手洗いを済ませ、長い長い道のりをゆく『日光市営バス』へと乗り継ぎます。
山峡に点在する温泉地を経て、下界を目指し走る小さなバス。車窓は零れんばかりの緑に染まり、それがふと途切れたかと思えば青く輝く川俣湖が。
鬼怒川の刻む谷と絡み合うように走る県道。深い森、ぽつりと現れる隠れ里。そんな変化に富んだ車窓を眺めていると、白い岩盤が印象的な峡谷美。あんなにさらさらと流れていた鬼怒川が、こんな谷を刻むなんて。
数日前まで、今日の天気予報は良くて曇りだった。それなのに、こんなに眩い景色が望めるなんて。昨日一日降った雨を浴び、緑はその鮮やかさと力強さを一層増したように感じてくる。
鬼怒川の生んだ深い谷、人が生み出した人造湖。複雑に絡み合う情景に、長い乗車時間もあっという間。ひときわ湖面が開けたかと思えば、そこに立ちはだかる巨大な川治ダムの堤体が。
バスは堤体の上を横切り、もう少しだけと名残惜しそうに八汐湖沿いを進みます。もう間もなく、長いトンネルを抜け下界へ。その前にもう一度だけ、奥鬼怒という別世界を抱く山並みを眼にこころに灼きつけます。
バスは順調に山を下り続け、終点の鬼怒川温泉駅に到着。何やら駅前が騒がしいと窓の外を眺めてみると、下今市から駆けてきたSL大樹がちょうど転車台へと載るところ。なんとタイミングの良いことだろう。思いがけない鉄分に、僕の赤血球が騒ぎだす。
久々に間近に感じるSLの息吹に高揚しつつ、駅前に位置する『杉ん子』で昼食をとることに。バスに2本乗っただけなのにお腹が空くのか?と思われそうですが、宿を発ってからもう2時間半近くも経っているのです。
同じ日光市内を移動したとは思えない距離感に、遥かな奥鬼怒を感じつつ飲む瓶ビール。昼飯前のいけない甘美を噛みしめていると、注文した温かいゆばそばが到着。太めのもっちりとしたそばと、しっかりとした湯波の存在感。日光へと来たら、やっぱりこれなんだよな。
おいしいゆばそばを平らげ、電車の時間までSL大樹に逢いにゆくことに。転車台で方向を変え、折り返しを待つC11。こうして至近で感じると、やっぱり蒸気機関車は生きているとしか思えない。確実に伝わる古豪の息吹や鼓動に、僕の胸の深い部分が締め付けられる。
2年ぶり、3度目となった奥鬼怒。下手をすれば東北よりも辿り着くことが難しい関東だけれど、やはりそこでしか味わえない豊かさが確かにあった。手白澤と日光澤、残すところあと2湯か。そんな野望にも近い想いを抱き、この地に別れを告げます。
帰りものんびり普通電車の旅。途中下今市で乗り換え、栃木を目指します。あぁ、僕の大好きだった6050型。今走る20400型もリニューアルされ快適ではありますが、あのボックスシートで揺られた鬼怒川路が恋しくて仕方がない。
空いたロングシートで身をよじりつつ車窓を眺めていると、並行する鬼怒川の流れを回送されてゆくライン下りの舟が。そういえば、鬼怒川で舟に乗ったことないかもしれない。再訪の口実をまたひとつ手に入れ、思わずニンマリしてしまう。
大正時代に下野軌道として敷設されたというルーツを持つ東武鬼怒川線。かつて東京の地下を貫いていた車両が厳しい線形をゆっくりと走る様子に時代の変遷を感じていると、電車は鬼怒川を渡る鉄橋へ。
2泊3日を共にした鬼怒の流れとの別れに、思わず感慨深いものが湧いてくる。くどいようだけれど、東北よりも遠い関東の最奥。でもそこまでして逢いにゆきたいお湯がある。2湯目にして知った奥鬼怒の懐の深さに、より一層彼の地への想いは募るのでした。
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