蔵王で迎える静かな朝。まだ眠りから覚めぬ、いたるところで湯けむりをあげる湯の街。遠くに連なる山々は白銀に輝き、盆地はまっしろな雲海に覆われる。朝という特別な時間の放つ荘厳さを胸いっぱいに吸い込み、しゃきっと頭を覚ましたところで朝風呂へと向かいます。
静けさのなか、葉擦れの音が聞こえる露天風呂。そこでただ一人、じっくりと白濁の湯と向き合うという贅沢。そんな旅先ならではのゆるやかに流れる朝を噛みしめ、お腹も空いたところで朝食会場へと向かいます。
こちらのお宿の朝食は、バイキングスタイル。和洋の品々が並ぶなか、好みのおかずを選んでゆきます。鮭やたらこ、高菜炒めやおみ漬けとともに味わう白いご飯。そして嬉しい、熱々の玉こんにゃく。芯までしっかりとだしの染みたおいしさが、山形に居るという実感を強めてくれる。
おいしい朝ごはんに満たされ、自室に戻り禁断の微睡タイム。時間を気にせず、まだほんのり温もりの残る布団に潜り込む。これだから、連泊はやめられない。日常では許されぬ怠惰の甘さに溺れたところで、再び湯屋へと向かいます。
まばゆい午前の陽射しを受け、きらきらと輝きを放つ白き出湯。肌を包む絹のような浴感、鼻をくすぐる硫黄の芳しさ。あぁ、解けてゆく。自分の深部から溶けだした日々のあれこれと入れ替わるように、蔵王の湯の力がじんわりと心身の芯へと沁みてゆく。
午前の湯浴みをしみじみと噛みしめ、再び寝床でうつらうつら。溜まった疲れもだいぶ抜け軽さを感じたところで、さんぽがてらお昼を食べに出ることに。
蔵王の中でも高台に位置する名湯舎創。宿の前から続く登り坂を進んでゆくと、秋空に眩く映える白樺の木。冬へと向け葉をすっかり落とし、真っ青な空に繊細な枝の模様を浮かべています。
そのまま道なりに登ってゆくと、立派な杉木立に守られるようにして佇む小さなお堂が。この薬師神社には、鎌倉時代に彫られたという薬師如来像が安置されているそう。
お参りの前に手を清めようと手水舎へ向かえば、落ち葉を抱き張る薄氷。そうか、ここはもう冬の手前だった。この寒さがあるからこそ、蔵王の湯の温もりが一層うれしく感じられるのだろう。
薬師神社に手を合わせ、木立の中の小径を進んでゆくと立派な社殿が。温泉街を見守る酢川温泉神社に、再びこうしてこの地へと帰ってくることのできたお礼を伝えます。
神社から車道に戻り歩みを進めてゆくと、ほどなくして広々とした空間が。雪は積もっていないけれど、何となく見覚えがある気がする。3泊4日の滞在中、温泉街からスキーをえっちらおっちら担いでこの上の台ゲレンデまで通ったんだった。
懐かしい想い出に胸を温めつつ、温泉街へと下る道。断片的ではあるけれど、少しずつ解像度を増してゆく当時の記憶。すると姿を現す、酢川温泉神社の朱い門。はっきりと記憶に残る光景に、思わずうれしくなってしまう。
神社へと続く長い長い石段を守る朱塗りの門、その下で渋い佇まいを魅せる共同浴場上湯。そしてそのすぐ上には、僕らが泊ったおおみや旅館。懐かしい。本当に懐かしい。未知なる地を旅する悦びもあるけれど、再訪の旅の魅力は何ものにも代え難い。
往時の記憶の答え合わせをするように、想い出と照らし合わせ歩く蔵王の街。今はひっそりとしているけれど、あと1ヶ月もすればあの日のように大勢のスキーヤーで賑わうことだろう。
シーズンを控え、静かな中にも準備へと向けた動きを感じるスキー場。東北屈指のスノーリゾートの胎動を体感し、ふと目に留まった『音茶屋』でお昼をとることに。
中へと入ると、そこに広がるのは居心地の良い空間。木の温もり溢れる店内にはタイプの違う椅子やソファーが置かれ、自分好みの席を見つけふっとひと息。すぐそばでは薪ストーブがパチパチと音を立て、じんわりとその温もりが体の芯を温める。
おしゃれだなぁ。あまり入ることのない感じのお店だけど、なんだかゆったりしている。大きなスピーカーから流れる音楽を聴きつつぼんやりしていると、お待ちかねのチキンと野菜のスープカレーが運ばれてきます。
ごろごろとしたとりどりの野菜、その下に隠れるのは一本まんまの骨付きもも。すごいボリュームだなと思いつつ、まずはスプーンでスープをすくいひと口。
うわぁ、沁みてくる。さらりとしていながら、旨味の溶け出た滋味深いスープ。それを華やかに彩る、スパイスの心地よい芳香。旨味と甘味を感じつつ、しっかりと舌を悦ばせる辛味。久しぶりにスープカレー食べたけど、こんなにおいしかったっけ。
続いては、ご飯をスープに浸して。穏やかな旨味の宿るだしをまとったお米が、口の中でするすると解れてゆく。その旨さにひと口、もうひと口とスプーンが進む。
米好きには堪らぬ味で立て続けにご飯をいきたくなりますが、素揚げされた大ぶりな野菜を。それぞれの持つ味わいがじんわりとしたスープとよく合い、ひと口ごとに味わう愉しさを感じさせてくれます。
そして奥に隠れたチキンを頬張れば、ほろりと解れる食感とじゅわっと広がる鶏の旨味。食べ進むうちに汗が滲む程度の辛さはあるし、スパイスの香りもしっかり広がる。でも、それぞれの素材の味を邪魔しないほどの良き塩梅。食材の滋味が込められた味わいに、ほくほく顔で完食します。
さんぽ途中で出逢えたおいしいカレーの余韻に浸りつつ、急坂を登り宿へと帰還。じんわり滲んだ汗を流すべく、午後の誰もいない湯屋へ。連泊だからこそ味わえるまろやかな至福に身を任せ、湯上りには火照った喉を潤す冷たいビール。
ずっとずっと、こうしていたい。そんな願いは叶うはずもなく、あっという間に迎える夕暮れ。愉しい時間というものは、本当に瞬く間に過ぎゆくもの。その儚さを噛みしめつつ、雲間から漏れる今日という日最後の輝きを見つめます。
夕食前にもうひと風呂愉しみ、良き時間になったところで夕食会場へと向かいます。今夜のメインは、山形県のブランド豚である米の娘ぶたのしゃぶしゃぶ。白身の甘味と赤身の旨味の濃い豚はバラと肩ロースが用意され、部位ごとに異なるおいしさを味わえます。
豚好きには堪らない旨さに満たされ、今夜も結構な満腹に。でもやっぱり、ご飯も食べたい。お漬物や山菜のたっぷり入った豚汁と共に味わうお米に、こりゃ太るはずだよとひとり苦笑い。
満腹を抱え部屋へと戻り、敷きっぱなしの布団にころがりぼんやりうだうだ。お腹も落ち着いたところで、蔵王での最後の夜を彩るべく地酒を開けることに。
南陽市は東の麓酒造の醸す、龍龍龍龍純米吟醸。これで「てつ」と読むのだそう。口へと含むと、なめらかに広がる濃い甘味。そんな丸みのある味わいのなかにも酸味を感じ、最後はするりとキレてゆく。
これまで飲んだ山形の酒とはまったく異なる表情に、湯呑を傾ける手が速度を増す。危ない危ない、まだ酔っぱらってしまってはもったいない。酒の後味に浸りつつ、心の赴くままに向かう湯屋。
夜になり、ぐっと締まりを増す山の空気。その冷たさを頬に感じつつ、ひとり静かに身を置く露天風呂。聞こえてくるのは、木々の声と湯の掛け流される音。とぽとぽと心地よい音色にふと目を瞑れば、心身の隅々まで濁り湯の白さが行きわたる。
全身の毛穴という毛穴に宿る蔵王の恵み、それをひとりにやけ吸い込む豊かな湯上り。そんな夜により厚みをもたせるべく、続いて天童ワインの赤を。辛口ながらしっかりと葡萄の果実味があり、特に香ってくる皮の風味が印象的。
きりりとしつつ、とろりとした口当たりのおいしいワイン。最近旅先で地のワインを飲むようになりましたが、本当にその表情の豊かさに驚かされる。
初めてこの地を訪れたのは、もうふた昔近く前のこと。あのときは、こんな風に旅を味わえているなんて想像もしていなかった。あぁ、良い夜だ。静まり返った夜の湯の街に、スキー板を担いだ若き僕らの姿を重ねてみるのでした。
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