時刻は6時前、いつもの時間に目が覚める。起きるにはちょっとばかり早いかと寝床で逡巡しつつ、二度寝すればいいやと思えるのもゆとりある船旅の大きな醍醐味。
それにしても日付の変わる直前に出航し、もう三重が目の前。平均的なフェリーの航行速度が約40㎞/hなのに対し、それいゆは約50㎞/h。日本海で培った俊足のDNAが、太平洋航路にもしっかりと息づいている。

冬型の気圧配置のため、1時間半ほどの遅延予想。覚悟はしたものの、思ったよりも揺れが弱い。これくらいなら全然大丈夫そうだな。ひとまず安心し、まだ明けきらぬ太平洋を眺めます。

まぁ無理だろうと思いつつ、とりあえず6デッキへ。甲板への出入口は案の定閉鎖中。こうして眺めていると、船がゆったりと揺れているのが見て取れる。

晴れには晴れの、雨には雨の海原の表情がある。一瞬にしてこころを奪われた、あまりに深いこの情景。しばらくはこの群青に染まろうと、誰もいない静かなカウンターでひとりぽつんと佇みます。

雨天の夜明けが織りなす旅情にこころを焦がし、ふたたび自室に戻ってうとうと微睡む。そしてふっと目が覚めれば、もうすぐ朝食が始まる時間。ちょっとばかり早めに寝床を出て、気になるあそこに行ってみることに。

その場所というのが、5デッキ前方にあるフォワードサロン。前を向いたひとり掛けの椅子のほかソファーもあり、エンジン音も届かぬ静かで落ち着いた空間が広がります。

船首側に腰掛け、ぼんやり眺める雨の海。この程度で、波は何mあるのだろうか。いままでのフェリー旅で一番白波がたっているが、それでも揺れは気にならない。

フォワードサロンで船長気分を愉しんでいると、レストランの朝食営業開始時刻に。東京九州フェリーは、朝昼晩ともにバイキングではなく好みのメニューを注文するスタイル。食へのこだわりは新日本海フェリーで経験済みなので、自ずと期待が高まってしまう。

好きな席を選び、タッチパネルで注文。和洋のセットのほかカレーや麺類、お粥などもあり迷ってしまう。でもやっぱり、朝は和食派の僕。安定の和風プレートセットを頼みます。
大ぶりの焼き鮭は脂のりと塩気がちょうどよく、明太子や昆布の佃煮も白いご飯の最良の友。九州産だという割り干し大根の漬物はばりぼりと豊かな食感で、船上ながらしっかりとおいしい和定食に嬉しくなる。

そして何より、一番の調味料となるのがこの船窓。和朝食を味わいつつ眺める、果てなき海。あまりに非日常で、あまりに贅沢。この至福を一度知ってしまうと、船旅からはもう逃れられない。

船上ながらファミレスよりちょっとプラスする程度のお値段で、きちんとおいしい食事を提供してくれる。こりゃ昼も夜も楽しみだ。さすがSHKライングループが満を持して切り拓いた新航路、膨らみ切った期待を軽く超えてくる。
新日本海フェリーは結ぶ港自体が旅先となる距離にあるため、なかなか利用することが難しい。でもこの船旅は、横須賀から手に入るんだよな。ちょっとこれは、本格的にまずいことになってしまったぞ。

そろそろ船は四国沖へ。紀伊半島を越えたあたりからあきらかにうねりは強くなったが、それでも全然気にならない。周りでも酔ったような乗客も見かけず、これが全長222.5mの巨大船の実力なのかと感心しきり。

寝床でのんびり過ごしていると、プラネタリウムの案内が。ちょっと見に行ってみるかとスクリーンルームへと向かえば、そこに並ぶのはあのYogibo。初めてきちんと座ったけど、これは確かに人をダメにするやつだな。
ビーズクッションならではのホールド感に身をゆだね、足を投げ出し船とつながるような感覚をゆったり味わう。すでにリラックス状態で待っていると、暗くなり星空から花火、海とさまざまな映像が。

思った以上に見ごたえのある映像美を満喫し、すぐ隣にある大浴場へ。ゆったりとした船の揺れに合わせ、ざばんざばんとお湯も揺れる雨の露天。船上ならではの湯浴みに身を任せ、茹だったと思えば縁に腰掛け海風を浴び。控えめに言って、もう最高。この体験は、忘れられそうにもない。

何もしていないようなのに、ものすごく濃厚な時間が流れてゆく。さっき朝ごはんを食べたと思ったら、もうレストランが昼食営業を開始。神奈川や九州のご当地メニューに激しく迷いつつ注文を終え、セルフの生ビールで湯上がりの乾杯を。

いけない昼ビールにひとりにんまりしていると、お待ちかねの門司港レトロ焼カレーが運ばれてきます。しっかり焼いたことが伝わる、ぐつぐつぐつぐつと沸くチーズ。船上とは思えぬ本気度に、猫舌の僕は思わず身構える。
サラダを食べつつ落ち着くのを待ち、スプーンですくっておそるおそるひと口。うん、熱いけど旨い!まろやかなチーズに負けぬしっかりとしたカレー、それをまとうほっかほかの白いご飯。混然一体となった旨さに、はふはふ汗をかきつつあっという間に平らげます。

おいしい昼食に舌鼓を打ち、大満足でふたたび自室へ。熟睡するわけでもなく、うつらうつらと微睡む午後。そして気が向いたら、足の向くまま船内へ。そんな自由こそが、船旅の真骨頂。

そういえば、さきほどから明らかに揺れが少なくなったという実感が。いったい今はどんな感じなのだろう。それを確かめるためにフォワードサロンへと向かえば、太平洋らしいうねりが消えている。

最後にもうひとっ風呂浴びに行くか。降っていた雨もいつしかあがり、露天風呂はさらにのんびりできる状況に。入ったり出たりを繰り返し、それいゆでの最高の湯浴みの記憶を胸へと刻む。
そして湯上がりには、もちろん冷たい大人の飲み物。お気に入りの宝焼酎ハイボール、その爽快な刺激が船上での夕刻をより豊かにしてくれる。

営業時間以外はパブリックスペースとして開放されているレストラン。ソファーに座ってのんびり過ごしていると、船窓には陸の影。あぁ、もう四国は高知、足摺岬を回ったか。久々に目にした陸地が、うれしくもあり寂しくもあり。

そうだ、開放されているということはもしかしたらあそこにも出られるかも。そう思い船尾方向へと歩いてゆくと、バーベキューガーデンに繋がる扉も開放中。ここでも感じられる新日本海フェリーの遺伝子に、思わず嬉しくなってしまう。

曇天だからか、それとも夕暮れが迫っているのか。そんなことも判らぬような灰色のなか、それいゆは二度目の夜へと向け進んでゆく。

就寝以来、久しぶりに出られたデッキ。聳えるファンネルの凛々しい姿を眼に灼きつけ戻ろうかと振り返れば、ぱっと目に飛び込むこの情景。あの細長い半島は、佐多岬だろうか。黒々とした陸を染める夕色が、胸の深い部分を焦がしてゆく。

パステルに染まる夕刻の情緒にこころを打たれていると、迫るレストランの夕食営業開始。迷惑にならぬよう一旦退出し待つことしばし、オープンと同時に席に着きます。

窓辺のカウンターから椅子やソファーまで、好みに合わせて席を選べるレストラン。朝と昼は海に向き合うカウンターに座ったので、最後の晩餐はゆったりとテーブル席を利用することに。

これからは、日本酒の日々になるだろう。そう思い選んだ大分の安心院ワイン、卑弥呼赤。辛口ながらしっかりとした豊かさがあり、これから上陸する九州へと想いを馳せるにはもってこい。

そんな旨い赤に合わせるのは、九州宮崎名物の特製チキン南蛮を単品で。まずはそのままひと口。さっくりと揚がった鶏はジューシーで、まとう甘酢がまたいい塩梅。つづいてタルタルソースをつければ、思わず最高かよと独り言が漏れてしまう。
そしてもう一品、アラカルトで頼んだベルリン屋台ソーセージ。しっかりとした肉感のあるソーセージ、食欲をそそるふわっと香るカレー粉のスパイシーさ。ワインの友として、我ながらいい選択だ。

朝昼晩と満喫した、東京九州フェリーでの食。その有終の美を飾るべく選んだのは、博多名物の丸天うどん。とはいえメニュー写真は濃口っぽかったし、明日から西日本の感じだからしょうゆ味に別れを告げるかと軽い気持ちで注文。
待つことしばし、運ばれてきた丼を見て思わずびっくり。これ、ちゃんと西の薄口のおつゆだ。出汁感のある優しいおつゆ、そこに映える甘めの丸天。初めて食べましたが、さつま揚げの載ったうどんというよりどちらかといえばきつねに近い感覚かも。

薄口のおつゆに甘みのある練り物と、はじめての旨さに大満足。やっぱり、SHKライングループはいい。新日本海フェリー譲りの豊かな食を旅の想い出として胸へと刻み、残されたわずかな時間に揺蕩うべくすっかり我が家化した寝床へと戻ります。

今朝までは1時間半ほどの遅延を予想していましたが昼間には45分と短くなり、ついには定刻通りの到着に変更。残すところ、あと1時間。どの辺まで来ているのだろうとモニターを見てみれば、もう門司は目と鼻の先。

ついにここまで来てしまったか。そう思い窓ガラスを覗けば、ゆっくりと流れゆく門司の灯り。期待感と、寂寥感。相反する感情が、一瞬にして胸のなかを掻き回す。

もうそろそろ、支度をするか。眼前に現れた九州の姿に意を決し、自室へと戻りまとめる荷物。何度フェリーに乗っても、この瞬間は胸に来る。再びの乗船を固く誓い、ひと晩を過ごしすっかり愛着の湧いてしまった寝床に別れを告げます。

公共交通機関としての使命を体現しつつ、船旅の非日常感や食の愉しみを味わわせてくれる。そんな僕の愛する新日本海フェリーの信念が、さらに洗練されて太平洋へとやってきた。本当に、善き船だった。それいゆで過ごした濃密な記憶が、走馬灯のように蘇る。

横須賀から海原を拓くこと976㎞。その壮大な船旅も、残すところあとわずか。21時間を掛け波を蹴ってきたそれいゆは、もうまもなく新門司港へと入港。

横須賀から、こんな航海があったなんて。だめだ、これは禁忌に手を出してしまったという自覚がありすぎる。目指す地九州は、僕にとってはあまりにも広大な未知なる地。こうしてまた海を渡ってくる未来しか見えてこない。

ガラス越しに、確実に近づいてくる九州の灯りをひたすら見守る。そしてついに姿をあらわす、新門司港フェリーターミナル。

とうとう迎えてしまった、この瞬間。遥かなる航海を終えたそれいゆは、音もなく新門司港に無事接岸。生まれて初めての西行き航路、その未知なる旅路が終わってしまった。

旅の最初の目的地に着いたというのに、なぜか襲い来る喪失感。いや、それほどまでに豊かな船旅だっということだ。本当に、最高の乗船体験をありがとう。九州まで運んでくれたそれいゆの雄姿に再会を固く誓い、連絡バスへと乗り込みます。

船の到着に合わせて運行される、無料の連絡バス。揺られる西鉄バスに九州へとやってきたという少しばかりの実感が芽生えつつ、30分ほどで門司駅に到着。

バスはこの先小倉駅まで行きますが、僕は翌日の観光のためここで1泊することに。駅からすぐ近くのビジネスホテル門司へとチェックイン。

なかなか年季の入った外観に一瞬おぉ、と思いましたが、受付の方も感じがよく室内は見ての通りきれいで快適。今回は予定があったため食べませんでしたが、これで朝食も付いて4,500円。旅費高騰のこのご時世、本当にありがたい。

ひとつの終わりは、次への始まり。あまりに濃密だった船旅の余韻に揺蕩いつつ、まずは12年ぶりの再訪となった九州に乾杯。麦焼酎の水割り片手に、明日からのめくるめく未知との遭遇へと期待を寄せるのでした。
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