お昼ついでにのんびり歩いた瀬見温泉の昼下がり。自室へと戻りちょっとばかり午睡の甘美に溺れ、ふと目が覚めたところで千人風呂へ。午後の陽射しに溢れる荘厳な湯屋で、円形の大きな浴槽にひとり揺蕩う静かな時間。こんな瞬間があるから、何だかんだで頑張れる。
愉しい時間は、あっという間に過ぎゆくもの。浸かって、寝転がって、微睡んで。そんな甘い自堕落に身を委ねていると、早くも迎えてしまった夕暮れ時。
明るいうちにこの宿とゆっくり戯れられるのも、あと少し。ローマ式千人風呂でゆったりと瀬見の湯に浸り、その火照りを連れつつ本館玄関の独特な世界観に逢いに行くことに。
玄関で客人を出迎えるのは、大きく象られた縁起物。末広がりの扇には宿名が記され、ひょうたんの中にはこれまた商売繁盛の神様である大黒さまと恵比寿さま。
さらに鶴と亀、女将に招かれ玄関へと上がれば、そこに広がるのは鈍い飴色に染まる重厚な空間。弱まりゆく午後の日射しと、反比例するかのように存在を増しつつある電灯の温もり。このふたつが綯い交ぜになるこの時間、夜とはまた違った表情に。
ガラス戸からの自然光を浴び、より一層力強さを増す筍の彫刻。地中から顔を出し天を目指し伸びゆく姿には、本物と見紛うほどの生命力が。
その対面、障子4枚に渡り再現された見事な松。ごつごつとした質感の太い幹、繊細な枝ぶりの先に茂る豊かな葉。間近で見れば緻密に彫られた跡が見て取れ、ここが神社仏閣や城郭でもなく温泉旅館だということを忘れさせるほど。
さらにその隣の部屋の障子には、これまた見事な枝ぶりの梅の木が。引手にはうめの文字まで彫られ、細部にまで込められた独特の美意識に圧倒されるばかり。
それぞれ個性が強く、一見統一感のないように見える彫刻たち。でもここ喜至楼にぎっしりと詰め込められた装飾には、ふたつのテーマが一貫して感じられる。
松竹梅や鶴亀、扇、盃、七福神。さらには福助さんや鯉の滝登りなど、いたるところに散りばめられた縁起物。一方で脱衣所や廊下には、金太郎や花咲かじいさん、うさぎとかめといった昔話の一幕も。
なんだろう、雑多で混沌としているようなのに、心地よい。きっとそれは、手を変え品を変え、浴客を迎えようとする遊び心が宿っているからなのかもしれない。古の人々の美意識と心意気に触れ、一層この宿を好きになってしまう。
ずっとずっと、こうしてぼーっとしていたい。電気も点けず布団に転がり、ぼんやりと暮れゆく空を見上げる無の時間。喜至楼に満ちる唯一無二の空気感に溶かされていると、あれよあれよという間に暗くなりもう夕食の時間に。
昨日と同じ別館の個室へと向かうと、食卓にはおいしそうな品々が。枝豆おろしやお浸しといった前菜や、お刺身とともに味わう山形の酒。今夜の鮎は、田楽で。風味の良いほっくりとした身にコクのある甘めの味噌が絡み、こりゃ吞兵衛殺しの堪らん旨さ。
続いて、ぐつぐつと湯気を上げ食べごろになった山形名物の芋煮を。里芋に牛肉のほか、ねぎ、ごぼう、舞茸、こんにゃくが一緒に煮込まれています。
まずはおつゆをひと口。何故こうも、山形の芋煮は沁みるのだろうか。濃すぎず薄すぎず、程よい甘味のあるしょうゆ味。シンプルながら、その破壊力は最上級。毎度のことながら、自分では決して再現できぬ郷土の味に感服。
続いてホクホク熱々の里芋を。しっとりねっとりとした食感に、程よく染みたおつゆの旨味。里芋は、煮込みすぎないほうがいい。芋の風味や食感が程よく残されているからこそ、この甘辛味が活きてくる。
郷土の滋味に溢れる芋煮で地酒を平らげ、〆に白いご飯を。おかずにしたのは、ボリューム感ある生姜焼き。たっぷりのおろししょうがとにんにくの効いた味付けは、ご飯にばっちりの家庭的なおいしさ。
そして白いご飯を少しばかり残し、今宵も禁断のつゆかけまんま。芋煮の汁をたっぷりと掛けて搔っ込めば、この食べ物嫌いな人などいるはずない!と断言したくなるほどの口福感が満ちてゆく。
おひつのご飯までしっかりと平らげ、パンパンのお腹を抱えて布団へごろり。旅先でしか許されぬ甘美に身を委ね、お腹も落ち着いたところで今宵の友を開けることに。
1本目に選んだのは、鶴岡は加藤嘉八郎酒造の大山十水特別純米酒。昨夜飲んだ愛心酒とは打って変わって、しっかりとした味わい深さが印象的。米と水だけで造られている純米酒、同じ蔵元でも全く違う。いつものことながら、日本酒の神秘を感じます。
続いて開けたのは、高畠町の後藤酒造店が醸す辯天純米大吟醸。山形県産の酒造好適米、出羽燦々を100%使ったお酒は、ふくよかでフルーティーさを感じるおいしいお酒。
旨い地酒をちびりとやり、気が向いたらローマの風を感じる独特な湯屋へ。そんなことを飽きもせず繰り返してゆく、瀬見での夜。ほろ酔い加減で畳に転がり見渡せば、優しく包んでくれる歴史溢れる和室の温もり。
あぁ、良い気分だ。明日はもう帰る日、あと少し夜更かしでも。そんな思いが一瞬頭をかすめますが、この心地よさのまま今日を終えるのが吉だということを今の僕は知っている。
最後にひとっ風呂浴びて、タイル張りの洗面所で歯を磨いて。しっかり水も飲み、さあ寝るか。今日を欲張らない分、明日ちょっとだけ早起きしようか。そんなことを考えつつ、静かに消灯。
9年ぶりに訪れた喜至楼は、何も変わらず喜至楼のままで居てくれた。昨日から今日にかけ、何度その事実に悦びを覚えたことか。今回の滞在でまた新たに受け取った温もりを胸に、流麗な鯉たちに見守られながら深い眠りへと落ちてゆくのでした。
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