朱に染まる宇佐神宮の荘厳さと豊前の鱧の旨さを胸へと刻み、そろそろこの地を離れることに。こうして来ることができて、本当によかった。そんな思いを反芻しつつ、静かなホームに佇みます。

午後の日中時間帯の普通列車は1本だけという、日豊本線のこの区間。ふたたびソニックに乗るかと時刻を調べていると、ちょうど良い時間にその貴重な1本が。別に特急料金をケチりたいというわけではないが、やはり普通列車にも乗ってみたいと思うのが鉄の性。

昨日に引き続き、やってきたのはJR九州の主力車両のひとつである813系。こげ茶や黒をベースとした落ち着いた転換クロスシート、深紅に彩られた扉。ドア口のつり革は円形に配されており、九州の鉄道になじみのない僕にとってはすべてが新鮮に目に映る。

福岡県から大分県へと周防灘を近くに遠くに感じつつ走ってきた日豊本線も、宇佐の手前からぐっと内陸に入り国東半島の付け根を行くように。車窓に映る山容も見慣れたものとは雰囲気を異にし、普段の行動圏から遥か離れた地を駆けているという実感が。

思った以上に山深さを感じさせる道のりを抜ければ、ぱっと視界が開け車窓いっぱいに広がる別府湾。お猿で有名な高崎山が海へと張り出し、その奥には県都大分の街並みが。

山から海へと移ろう車窓を眺めること1時間足らず、温泉地としてあまりに有名な別府に到着。ホーム上から望む駅前は、あのときの雰囲気のまま。12年ぶりの再訪に、干支ひと廻りかと思わず感慨にふけってしまう。

懐かしい景色を眺めていると、背後から聞こえるアイドリングの音。ガラガラガラガラとディーゼル特有の唸りに振り向けば、これまた懐かしいゆふいんの森Ⅰ世。子供のころに一世を風靡した観光列車に揺られ、別府に期待を膨らませつつ久大本線を駆けたあの想い出が蘇る。

懐かしいなぁ。改めて時の流れを感じつつ駅前へ。両手を挙げて建つのは、別府観光の父として慕われている油屋熊八像。別府港桟橋や自動車道の建設、日本初のバスガイドが乗務する地獄めぐりバスまで、すべて熊八翁の発案なのだそう。

その隣、大きな竹籠のなかには温泉地らしい手湯が。なんとも贅沢な源泉かけ流し、温泉分析書まで掲出するというこだわりよう。ぼこぼこと滾ってはいますが、お湯自体はちょうど良い塩梅。手を浸ければぽかぽかとした温もりに包まれ、手軽に温泉気分を愉しめます。

これから向かうは鉄輪温泉。ひとつ手前の別府大学前が距離的には最寄り駅となりますが、バスの本数等を考えると別府からが便利。さらに別府には東と西にバス停があり、それぞれ鉄輪方面へのバスが発着。
もう、訳わかんなくなってきた。ということで系統の多そうな西口3番のりばに停車していた、『亀の井バス』の鉄輪行きに乗り込みます。

熊八翁が創業したという亀の井バスに揺られること24分、終点の鉄輪バスセンターに到着。ちなみに乗車した1番系統は遠回りだったようで、最短ルートなら16分ほどで着くそう。
バスセンターのすぐ脇の坂をのぼってゆけば、ほんの数十秒で今宵の宿である『かんなわゆの香』に到着。この旅で唯一となる温泉宿泊、はやく畳の部屋で手足を伸ばしたい。

館内へと入れば、木目や色ガラスを多用した大正浪漫を思わせる落ち着いた雰囲気。お部屋は新館とレトロ館とに分かれており、今回はひとりでも受け入れてくれるレトロ館のプランで予約。これぞ温泉宿といった雰囲気が、僕にとってはありがたい。

浴衣に着替え、さっそく大浴場へ。こちらの宿にはふたつの大浴場があり、チェックイン時は露天風呂付きのほうが男風呂に。扉を開ければ、大きな浴槽がお出迎え。

そしてこちらが露天風呂。換水清掃後だったのか浅かったためちょっとだけ入り内湯へ移動しましたが、どうやらもうひとつ岩風呂の湯船があったみたい。このときはまったく気づかなかった。

というのも内湯がすっかり気に入ってしまい、最初の一浴以外露天へは行かなかったから。太い柱や梁に支えられた高い天井、その木の渋い空間に佇む広い岩風呂。そこにかけ流される源泉はまろやかで、するりと穏やかな浴感ながら芯からじんわりしっかりと温めてくれる。

ほんのりささにごりのここちよい湯にすっかり茹だり、ほくほく顔で自室へ。そう廊下を歩いていると、見るからに年季の入った木のベンチに置かれた船盛が。よくよく見てみると、そこには氷で冷やされた湯上りの飲み物が。

おひとつどうぞに思わず誘惑されそうになったが、ここは我慢。フロントで大人の湯上がりの飲み物を手に入れ、満を持してプシュッと開放。のどへと流れる冷たい刺激、その旨さが心身の隅々まで行きわたる様を噛みしめる。

そんな湯上りのビールを一層旨くしてくれるのが、部屋を満たす昭和の香り。この棟は、楽々園の名で営業していた昭和50年代に湯治客向けとして建築されたもの。随所に染みついた往時の空気感が、造られたものではない本物のレトロというものを感じさせる。

ビジホやカプセルでがっつり観光からの居酒屋もいいが、やはり温泉宿の魅力には抗えない。畳の上で四肢を投げ出し微睡んでいると、あっという間にもう夕食の時間。大正浪漫漂う食事処へと向かいます。
席に着き待つことしばし、おいしそうな品々が運ばれてきます。まずは、とろりとなめらかでこくのある胡麻豆腐から。真丈の込められた道明寺饅頭はもっちりふんわりの食感で、穏やかなおだしの餡がとろりと美味。
酢の物は、鰻と若布、海月に胡瓜。うなぎの甘じょっぱさや脂に薄味のお酢がよく合い、くらげやきゅうりのさっぱり感もいいアクセントに。赤魚の焼き物は塩加減焼き加減ともに絶妙な塩梅で、合わせられた海老や穴子、栗がまた地酒を誘う。
そしてうれしいのが、お造りの旨さ。レモンでほどよく締まった、脂ののったサーモン。分厚いいかはねっとりと甘く、繊維の細やかさや旨味の濃さが伝わるいい赤身。そしてやっぱり、ごっりごりの新鮮な鯛。その食感に負けぬ旨味も詰まり、本当に西日本の鯛は一体どうなっているのかと毎度のことながら驚かされる。
おいしい肴つまみにグラスを傾けていると、お鍋からいい具合に湯気が。上品な塩ベースのおつゆに鰆に海老、ほたてといった魚介から出汁が染みだし、それを吸った野菜や粟麩がまたいい味わいに。

いやぁ、どれもおいしいものばかりだわ。そううれしく箸を進めていると、焼き立て熱々のミニステーキが。好みの焼き加減を聞いてくれ、ほどよい酸味のソースがお肉の脂と赤身の旨味を引きたてる。そしてじわりと感動したのが、添えられたサラダ。パリッと瑞々しく、久しぶりにおいしい生野菜を食べたかも。

さらに、こちらも揚げたて熱々の天ぷら。ふんわりとしたきす、ぷりぷりの海老。じゅわっとジューシーな茄子にしし唐と、いずれもさっくり軽やかな揚げあがり。そして本日二度目となる天つゆで納得。大分では淡口が基本なのだろうか、この上品さがすっかり心地よくなってきた。

数々のおいしい品々に満たされ、満腹になりつつ白いご飯で〆ることに。もっちり甘うまのお米に合わせるのは、九州といえばの高菜。まだ青みが残る程度の漬け方で、これがまた最強のご飯の友。旨い旨いとあっという間に平らげ、おだしと柚子のきいたお吸い物で至福の余韻を流します。

いやぁ、旨かった。デザートのパンナコッタまで平らげもうお腹はぱんぱん。いつも通りこのまま布団に転がってやろう。そんな誘惑を振り払い、怠惰がつけ入る隙を与えるまもなく腹ごなしの散策へ。

12年ぶりとなる別府鉄輪、前回は明るいうちに散策しただけなので今回は夜に歩こうと心に決めていた。そう意気込み宿を出れば、街の表情はより一層濃いものに。

そうだそうだ、坂の下にいい雰囲気の建物があったはず。そう足取り軽く地獄蒸し工房や足湯の脇を下ってゆくと、そこに広がるのは広大な更地。個性豊かな地獄とともに、いい意味で昭和の残る街だと別府をイメージ付けたヤングセンター。あの大衆演劇の看板も、渋い建物も跡形もなく消えていた。

まぁ、でもそういうこともあるよな。なにせ、干支ひと廻りだもんな。ちょっとばかり時代の流れを恨めしく思いつつ、足の向くまま歩く道。車の行き交う道の脇からは、小川に沿って緩やかな弧を描き下る坂道が。

街灯に照らされた艶めかしい情緒に誘われ進んでゆくと、小径の脇に姿をあらわす温泉設備。縦横無尽に廻らされた配管、そこからもうもうと噴き出す蒸気。パイプもコンクリートブロックも析出物で覆われ、放たれる何とも言えぬ妖しき美に眼もこころも釘付けに。

別府八湯の名の通り、市内には8つの温泉が点在。そのなかでも、いわゆる別府といえばと想起するのはここ鉄輪の街並みだろう。漆黒の夜空に向け、街中から立ちのぼる白い湯けむり。この迫力を目の当たりにすると、ここは温泉街という名の活きた火山であると思えてくる。

しゅうしゅうと方々から聞こえる蒸気の音を愛でつつ歩いてゆくと、道中いくつも出逢う共同浴場。中からは親子の話す声が漏れ聞こえ、この湯の街が地域の生活の場であるということを教えてくれる。

側溝からも湯気の立ちのぼる道を、思うがままにのんびり歩く。そんな泊まった者のみが許される贅沢を噛みしめていると、渋い旅館の看板に書かれた貸間の文字。鉄輪ではこの貸間と呼ばれる湯治宿がいくつもあり、蒸し料理に使える地獄釜が設けられた宿も。

貸間に泊まって湯めぐりし、夜はスーパーで買ってきた食材を地獄釜で・・・。いけないいけない、危ない妄想が捗ってしまう。一度芽生えてしまったこの感情、きっと実行する羽目になるんだろうな。

源泉数2,800以上、毎分10万2千ℓ以上の湧出量を誇る、文字通り日本一の湯の街別府。そこには150近くもの公衆浴場が点在し、こんなの滞在しようとしたら数ヶ月、いや、年単位で必要じゃん。
だめだ、だめだめ。そんなよからぬ妄想を深めてくれるのは、杵築市は中野酒造の醸す智恵美人純米酒。とろりと甘酸っぱく、じっくり味わうのにもってこいの旨い酒。

つづいて開けるのは国東市の萱島酒造、西の関特別純米酒秋あがり。華やかな香りに爽やかな酸味、そこに感じるここちよい甘味が、ひと口またひと口と湯のみを誘う。

そんな地酒に合わせるのは、お茶菓子として置かれていた焼やせうま。一見普通の胡麻きな粉せんべいのようですが、素朴ながらなんとも複雑な味がする。これはもうお茶菓子でなく、おちゃけ菓子だな。

12年ぶりに鉄輪で過ごす、静かな夜。旨い酒に揺蕩いつつ、こころの赴くままにお湯と戯れに。夜に男女が入れ替えられ、今度は露天のないほうの大浴場が男湯に。

このお風呂がまた、気持ちよくて。岩の質感が落ち着きを感じさせる浴槽に、惜しげもなく滔々とかけ流される鉄輪の湯。その肌触りはするりとまろやかで、いつまでもこうして戯れていたいと思わせる。
ほんのり鉄を感じさせる、ささにごりの湯。湯船に肩まで沈み、眼を閉じる。全身を包む優しい温もり、耳へと届く湯の流れる音。その優しくも芯まで届くような浴感に抱かれ、この湯の街に再訪できてよかったとひとりしみじみ思うのでした。



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