山の神温泉で迎える爽やかな朝。窓から溢れる眩さに誘われ外を眺めれば、視界になだれ込むあまりの鮮烈さ。昨日以上の鮮やかな空の青さに、今日も良い一日になりそうだとそう直感します。
出かける数日前の予報では、実は雨の予定だった今回の旅。まさかこんなに鮮やかな初夏を浴びることができるなんて。その悦びを胸に抱き、広い広いとよさわ乃湯で岩手の瑞々しさを全身に受け取ります。
清々しい朝の空気の中こころゆくまでとろとろのお湯と戯れ、あっという間にもう朝ごはんの時間に。今朝も数々のおかずの中から、自分好みの品々を選びます。
優しい味付けの肉じゃが、大好物のたらこや鮭、玉子焼き。郷土の味である漬物やしそ巻きも揃え、白いご飯がもりもり進んでしまいます。
そして嬉しいのが、お味噌汁のほかに岩手の味であるひっつみが用意されていること。根菜の旨味がじんわりと染み出た上品なおだし、それを程よく吸ったもちもちのすいとん。ひと口啜れば、胸の深い部分からほっと息が漏れてしまう豊かな滋味深さ。
これまで何度か訪れてきた花巻南温泉峡。その妖しさで強烈な印象を僕に植え付け、もう後戻りできぬ世界へと引きずり込んでくれた藤三旅館。そして江戸時代からの湯治文化を薫らせる生き証人、大沢温泉。その間、こんなに至近にあるはずなのに。優香苑にはそのふたつとは全く異なる時間が流れていた。
異動後初の旅行だし、繁忙期と環境の変化を乗り切った自分へのご褒美も兼ねてるし。だから未知なる地に放たれ刺激を浴びるより、勝手知ったる馴染みの地で落ち着きたい。
当初そんな軽い気持ちで宿を探し、開放的な露天風呂が目に留まり宿泊を決めたこのお宿。それがこんなに当たりだなんて。そんな出逢いがあるからこそ、旅することをやめられない。
とろんとろんつるんつるんの個性的な湯に、五十年、百年と残って欲しいと思わせる現代の技の込められた木造建築。そしてご飯までおいしいとなれば、これはまた来るしかない。またひとつ、この地で魅惑の選択肢を増やしてしまったな。そんな嬉しい悩みの予感を胸へと灯し、満たされた気持ちで優香苑を後にします。
行きと同様帰りも宿泊者は無料の送迎バスを利用できますが、行程の関係で9時台の路線バスに乗ることに。バス停のすぐそばには、山の神温泉の由来になったという山祇神社が。大好きな地で新たなご縁をくれたお礼を伝えます。
いつになく、ゆったりのんびりできた。本当にいい宿だったな。そんな余韻に浸っていると『岩手県交通』の湯口線、イトーヨーカドー行きバスが到着。買い出しのためにこのバスに乗った湯治の日々が、つい昨日のことのように思い出されます。
次の列車まではまだ時間があるため、花巻駅では下車せず終点のイトーヨーカドーへ。ここからちょっとばかり花巻の街を散策しながら駅へと戻ることに。バス停の向かいにには、石垣の上に復元された花巻城の西御門が。
花巻城の本丸跡に整備された鳥谷ケ崎公園。白亜の御門をくぐれば、鮮やかな若い緑に染まる広々とした園地が。その一画には、満開の花を咲かせる大きなつつじ。5月の陽射しを受け輝く白がただただ眩しく、その清楚さにこころが洗われるよう。
じりじりと素肌に初夏を感じつつ、本丸跡の突端へ。北上川や豊沢川の刻んだ河岸段丘上に位置する花巻城跡からは、延々と連なる岩手の山並みが。眼下の家々は変われど、青々と染まる山々はお殿様が眺めた頃ときっと変わらぬことだろう。
明治時代に廃城となった花巻城。本丸から堀跡を抜けてゆくと、かつての城内は学校やグラウンド、住宅等に姿を変えています。そんななか、唯一残る花巻城の遺構である円城寺門。元々は和賀の二子城大手門だったものを花巻城へと移築し、さらに戦後に現在地へと移されたものだそう。
そのすぐ隣には、少なくとも鎌倉時代には記録が残っているという歴史ある鳥谷崎神社が。何度も訪れた花巻ですが、初めてこの街の総鎮守にお参りすることに。
二十代半ば、藤三旅館湯治部で垣間見てしまった危険な世界。それ以来、鉛、大沢、台と、花巻では数え切れぬほどの良い湯よき想い出に満たされてきた。そしてまた、その記憶に新たな頁が。こうして幾度となく温かく迎えてくれる花巻への想いとお礼を、心の底から伝えます。
鳥谷崎神社へのお参りを終え、そろそろ駅方面へと戻ることに。その途中には、見るからに古そうな平屋が遺されているのを発見。この伊藤家住宅は築200年以上、ここが城内であったころから残る花巻城の生き証人。
裁判所や検察庁、市役所や体育館といった公共施設に姿を変えたかつての城内を進んでゆくと、その一画に何とも味わい深い石造りの建物が。これは旧花巻町立図書館の建物だそうで、重厚さの中に漂う何とも言えぬ牧歌的な表情が印象的。
その隣には、足元をつつじに彩られた渋い鐘楼が。中に吊るされる鐘は、380年近くも前に盛岡城の時鐘として鋳造されたものだそう。その後盛岡から花巻に移され、藩政時代を終えた今でも現役で時を知らせています。
久々に歩いた城下町、花巻。魅惑の湯への玄関口だけではないこの街の魅力に、今度はもっと時間を取って来なければと再訪の誓いを胸へと刻むのでした。
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