愛する湯宿で迎える静かな朝。今日はどんな天気だろうか。そう障子を開ければ、ちらつく雪の白さとともに部屋へとなだれ込む冷気。大沢温泉効果でぽかぽかだった寝起きの体が、凛とした冬の空気にしゃっきりと覚まされます。
時刻はまだ6時台、静けさと冷たさに包まれる館内。おぉ、寒い寒い。足音を立てぬようしかし早足で、まだ人の少ない大沢の湯へと駆け込みます。
そそくさと掛け湯をし、ざばざばと掛け流される清らかな湯に肩までとっぷり。その刹那、思わず漏れる深いため息。
頬は朝の空気の冷たさと湯けむりの温もりに交互に撫でられ、視界を染めるのは菊水舘と豊沢川の水墨画のような世界。春秋冬、本当にこの宿には死角がない。この季節ならではの贅沢を嚙みしめ、とろりとしたなめらかなお湯に身もこころもすべて預けて溶かされます。
朝からすっかり大沢の温もりに解されたところで、お待ちかねの朝ごはん。湯治屋の朝食は前日までの予約制ですが、今回はプランに含まれていたためチケットをもって食事処やはぎへ。
ほっけやひじき、ほうれん草のお浸しに海苔とどれもご飯に合うものばかり。熱々のひとめぼれがまたおいしく、案の定おかわりし朝から和の味にたっぷり満たされます。
満腹のお腹を抱え、敷きっぱなしの寝床でごろごろ。眠りに落ちるわけでもなく、ただただぼんやり。この甘美な怠惰を一度知ってしまうと、もう連泊からは逃れられなくなる。
チェックアウトし宿を去りゆく人の気配も落ち着いたころ、再び渓流沿いの大沢の湯へ。その道中、この宿の持つ情緒に触れるのもひとつの愉しみ。自室の横には、懐かしいガス自動販売機。あれに十円玉を入れ、チチチチとタイマーが時を刻むなか調理する。はぁ、また自炊湯治、したいなぁ。
白く息を吐きつつ、静かに進む廊下。棚に置かれた滞在者の靴、濃密な色味に染まった天井に軋む階段。幾多もの湯治客が往来したであろうこの空間に、自分の足跡を刻む。この宿の長い歴史の一瞬に、自分も身を置けることがただただ嬉しい。
部屋とお風呂の往復を幾度か愉しみ、朝ごはんをたっぷり食べたというのにもう訪れる空腹感。湯治の力強い味方であるやはぎに向かい、お昼ご飯をとることに。
ラーメンや定食、カレーにうどんなど、いろいろ目移りしてしまう。その中で今回は、これまで頼んだことのないカツ丼を注文。立ち寄り客のなか浴衣で居るという謎の優越感に浸っていると、湯気の立つ丼が運ばれてきます。
大ぶりのカツはカラッと揚げられ、丼つゆになじんだ部分とサクサク感の残る部分の対比が嬉しい。ほんのり甘い穏やかな味付け、それをさらに優しく包み込む玉子。ボリュームがありながらほっとするおいしさに、年甲斐もなくガツガツ一気に平らげてしまう。
この日は清掃のため大沢の湯は13時までお休み。食後お腹を落ち着けたところで薬師の湯へ向かい、じんわり静かに湯と向き合う。肌触りの良いタイル張りの浴槽、頭上の窓から漏れる雪の白さ。湯治場ならではの情緒にどっぷりと茹で上げられ、心身の芯まで温まったところでちょっとばかり散歩へ。
接続する橋の破損により、宿泊棟からギャラリーへと姿を変えた菊水舘。閉鎖されていた茅葺屋根の長屋も開放されたとのことなので、行ってみようと曲がり橋を見るとこれは無理そう。
昨日は往来していた人の姿もあったはずだが、今は中心にほっそりと足跡が残るのみ。自前のブーツを持って来れば行けないことはないが、これはまた次回へと繋がる宿題として残しておこう。
ひと晩で積もった雪の量に驚きつつ、掃除を終えたばかりの大沢の湯へ。対岸に箱庭のような菊水舘を眺め、頭を空っぽにして揺蕩う湯。そんな至福の雪見風呂の後に向かうは、自炊部らしい情緒に染まる売店。
たくさんのお土産に混じり、食品や日用品も並ぶ渋い空間。やっぱり次は、自炊湯治だな。変わらぬ姿の売店で冷たい一番搾りを買い、あの懐かしい日々を想いつつ味わう豊かな瞬間。湯上りのビール、何故こうも旨いのだろう。
はぁ、もうこのときがやってきてしまった。狭い谷底を、確実に浸食してゆく夜の気配。深まりゆく青さに残された時を感じつつ、豊沢の湯へ。大きくとられた窓越しに、去りゆく今日という日を見送る。本当に、愉しい時間というものは光のように過ぎてしまう。
6泊いてもあっという間だったもんな。そりゃ2泊なんて秒だよ、秒。この宿の持つ魔力に改めて圧倒され、迎えた夕餉の時間。今夜もひとり宴を愉しむべく、やはぎへと向かいます。
地元花巻の酒南部関をちびちび味わっていると、ごぼうのカリカリ揚げが到着。外はさっくり、中ほっくり。噛めばごぼうの豊かな香りと甘味が広がり、七味マヨをちょんと付ければよりコク深い味わいに。
続いて焼き鳥を。ふっくらと香ばしく焼かれた鶏は、柔らかジューシー。塩は多めに振られたコショーが華やかさを添え、タレには七味をかけピリリと引き締める。
おいしいつまみを挟みつつ、辛口の酒をしみじみ呑む。そんな緩やかな至福も終わりを迎え、〆に頼む水車そば。更科と田舎、かけともり。今宵も嬉しい悩みに迷いつつ、田舎のもりを注文。
昨日の更科とは打って変わり、力強さを感じさせる太めの田舎そば。おつゆに付けて啜れば口中をその存在感が満たし、噛めばしっかりと広がるそばの風味。それでいて、十割そばにありがちな粉っぽさやごわごわ感がない。本当に、ここのおそばは旨いなぁ。
さらに嬉しいのが、薬味として添えられた大根のしぼり汁。数口そのままで愉しみ後半に加えれば、大根の持つ爽やかな辛味とほんのりとした甘味や旨味が加わりこれまた絶品。
やっぱり、大沢温泉はいい。酸ヶ湯もそうだが、湯治宿や一軒宿では括ることのできない、大沢温泉というひとつの現象。そんなこの宿の持つ唯一無二の世界観、それは夜にぱっと花開く。
泊まった者のみが味わうことを許される、温もりと情緒に溢れた夜の湯宿の姿。古いながらも清潔に保たれた炊事場からは、従業員の方のみならず滞在者からもこの宿が大切に慕われていることが伝わるよう。
最後の夜にこころを染め、自室でひとり噛みしめる静かな時間。昨晩取っておいたお気に入りの酔仙を飲み干し、続いて開けるのはエーデルワインのコンツェルト赤。
岩手産のキャンベルで醸された赤ワインは、酸味の角のないきりりとした辛口。それでいて赤葡萄の軽やかな渋味や華やかな香りがしっかりと溶け込んでおり、昨日の白に引き続き初めての旨さに驚かされる。
良い夜だ。静かに酒を味わい、気が向いたら湯と戯れる。わかりやすい派手さや豪華さとは対極をなす、ここでしか味わえぬ枯れた豊かさ。その深みにはまってしまうと、そこから抜け出すことなどできやしない。
しみじみと、しかし確実に深まりゆく大沢温泉の夜。大切な宿に抱かれるという至福に揺蕩い、その温もりを胸の奥深くでしっかりと受け取るのでした。
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