瀬見温泉で迎える静かな朝。障子を開ければ、窓の外に広がる幽玄の世界。山々から生まれる靄が小国川の谷を包み込む様は、まさに幻想的のひと言。
誰もいない千人風呂でひとり穏やかな湯浴みを愉しみ、お腹も空いたところでお待ちかねの朝ごはん。別館の玄関横にある半円形のホールが朝食会場となります。
豚の角煮におひたし、たらこにお漬物といったこれぞ和朝食という品々。食卓でパチパチ炙られている鮎の一夜干しは香ばしさの中にじんわりとした滋味が宿り、淡白ながら白いご飯を誘うおいしさ。
昭和レトロのムードに包まれながら味わう朝ごはんはまた格別。案の定ご飯をしっかりとおかわりし、重たいお腹を抱えて自室へと戻ります。大正から昭和にかけて建てられたというこの別館。飴色に艶めくこの廊下には、写真や備品といったその歴史の数々が飾られています。
ひとつの旅館で味わう時間旅行。昭和、大正と時代を遡り、明治元年築の本館へ。その道中、廊下の突き当りには立派な破風板が。かつて使われていたものでしょうか、見事な彫刻と喜の文字があしらわれています。
本館の一画には、きれいに整頓された自炊場が。格子越しの朝日を浴びつつ、こんなところで朝食の支度を。そんな滞在の仕方も、いつかはしてみたい。
廊下には、迷宮のように入り組んだ館内の見取り図が。本館は川側、別館は山の斜面に建てられているため、平面図で見るよりも実際はさらに複雑な構造となっています。
そしてついに、明治時代へとタイムスリップ。本館2階部分の客室は仕切りのふすまが取り払われ、大広間のような空間に。今は使われていないのでしょうか、僕としてはここにも泊まってみたい。
複雑な館内に封じ込められた時空の旅を愉しみ、自室のある本館千人風呂へ。大正生まれのこの棟が、ある意味一番装飾が施されているかもしれない。2階から3階へと続く階段部は、木目の美しい折り上げ天井となっています。
その踊り場には、大量の火鉢とともに残された古い炬燵が。電気や灯油暖房のなかった時代、これに炭をくべ寒さをしのいでいたことでしょう。
そこから自室を見下ろせば、息を呑むようなこの光景。美しい。その言葉以外、見つからない。室内のみならず、廊下側からの見え方も計算された鯉の滝登り。もはやこれは、建具ではなく芸術作品。
朝食後の館内散策を終え部屋へと戻れば、いつしか朝靄も晴れはじめ白さの奥には鮮やかな秋の青さが覗くように。パステルの空と、杉の濃い緑の対比。空の移ろいをぼんやり眺めるなんて、旅先だからこその贅沢のひとつ。
そしてもうひとつ、この上なく甘美な贅沢を。心地よい満腹を感じつつ、まだ温もりの残る布団にもぐる。連泊だからこそ味わえる優雅な怠惰に、身も心も溶かされてゆく。
うつらうつらと甘い二度寝に揺蕩い、ふっと目も頭も覚めたところで再びお風呂へ。陽射しの射し込む午前のローマ式千人風呂は、夜の幻想的な雰囲気とはまた違った表情に。
通りを行く人や車の音を聞きつつ、そことはガラス一枚で隔絶された別世界に身を委ねる。全身を包む湯の優しさ、視界を染める豊潤な湯けむり。その先には独特な世界観を形作る壁画が目を悦ばせ、流れる時すら忘れてしまう。
肌なじみの良い瀬見の湯は、入り疲れや飽きがこない。心身の芯までローマ式に染めあげられたところで、部屋へと戻ります。磨かれた木の階段の脇には、びっしりと豆タイルの埋め込まれた壁が。どちらも白熱灯に照らされ、鈍い艶めきを放ちます。
少々長めの湯浴みに、体の芯からホクホクに。そんな湯上りに、いけない午前の冷たいビール。その贅沢をより一層味わい深いものとしてくれる、躍動感ある鯉の滝登り。
到着から、もう何度眺めたことだろうか。その度ごとに、ため息をもらしてしまう。皮膚の質感すら伝わるような、黒く艶めく真鯉。上を目指し滝を登る姿からは、力強さを感じます。
その下をゆったりと泳ぐ緋鯉。その繊細な彩色や丸みを帯びた姿は、何とも言えぬ優美さをまとっています。
美しい鯉の姿に目が行きがちですが、見事に表現された水しぶきもまた素晴らしい。躍動感ある形に、瑞々しさを感じさせる色合い。こうして間近で眺めていると、水の流れの音すら聞こえてきそう。
この圧巻の彫刻は、新庄市の杉原建具というお店が造ったものだそう。しっかりと刻まれたその文字からは、職人さんの矜持というものが滲み出るよう。
ビール片手に、じっくりと味わう古の職人技。こんな類稀なる空間を独り占めできるなんて、贅沢以外の何物でもない。この宿に満ちる世界観の強さに、どんどん心が染められてゆく。
ほろ苦く甘美な贅沢に揺蕩っていると、遠くから聞こえてくる警笛の音。カタン、コトン、カタン、コトン。山裾を単行の気動車がのんびりと行く光景に、なんだか箱庭を眺めているような錯覚が。
まだ昼前だというのに、この濃密感。瀬見の湯と美しい景色、そして何より喜至楼のもつ世界観に満たされ、幸せな時間はゆったりと流れてゆくのでした。
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