松川温泉で迎える静かな朝。窓の外を見てみれば、この旅で初めてとなる晴れの予感。雪壁の白さを染めるほんのりとした青さに誘われ、はだけた浴衣を直し朝風呂へ。
外へと出れば、地熱暖房の効いた館内とのギャップに驚く寝起きの身体。全身を包む凛とした空気に一気に冷やされ、そして迎える至福の瞬間。冬の露天風呂は、寒ければ寒いほど良い。松川の青白き湯の温もりに肩まで抱かれ、頬を刺す寒さすら愛おしくなる。
だんだんと力強さを帯びはじめる空の青、つられるように増してゆく雪の眩さ。その鮮やかな冬の競演が、空っぽになった朝の心身に沁みてゆく。やっぱり雪見露天は、別格だ。朝からそんな贅沢に身を委ね、お腹も空いたところで朝食の時間に。
赤魚のみりん漬けや、ふきときのこの煮物といったおかずとともに味わう白いご飯。ほうれん草のお浸しは瑞々しく、その甘味と風味のよさが印象的。そういえば、ほうれん草は八幡平の名産だった。
長芋の千切りにはしょう油漬けのたらこが載せられ、これまたご飯と相性バッチリ。大好物の納豆ご飯で〆て、最後に岩手といえばの小岩井牛乳を飲み干し大満足で自室へと戻ります。
おいしい朝食に満たされ、敷きっぱなしの布団にごろり。ぱつぱつになったお腹も落ち着いたところで、再び雪に埋もれる露天へと向かいます。
これまでの天気が嘘のように、頭上に広がる真っ青な冬の空。一点の曇りもない抜けるような晴れ空、その陽射しに照らされ輝く純白の雪。雪舞う情景もさることながら、この鮮烈な対比の放つうつくしさは言葉にできない。
あまりにまぶしい冬の煌めきに、胸の奥底に沈殿した日々のあれこれすら漂白されてゆく。白濁の湯のみならず、こころを灼くようなコントラストでも僕を火照らす松川の恵み。そんな湯上がりの温もりを、より持続させてくれる地熱の力。本当に、部屋の中なら浴衣一枚で充分だ。
松川荘はランチ営業もしているため、岩魚の天丼か山菜天ざるあたりを食べるつもりでした。が、朝食時にご主人から「今日の夕食もボリュームありますよ」と言われたため、予定を変更しいけない大人のおやつで済ませることに。
湯上りに、喉へと流す昼ビール。水で冷やされたビールは、空冷とは一線を画す口当たり。刺激的な冷たさではなく、じんわり芯から冷やされている。そんなどぶ漬けの旨い一番搾りに合わせるのは、岩手といえばの南部せんべい。
お茶菓子で置かれていたごぼうせんべいは、袋を開けた瞬間鼻をくすぐる香りが堪らない。パリっと噛めばごぼうの風味がぶわっと広がり、帰りに散策する予定がなければお土産として買って帰りたかったと思える旨さ。
お隣は、大沢温泉の売店で買った割りまめ醤せんべい。南部せんべいの王道ともいえる豆せんべい、それを彩るのは陸前高田のしょう油を使ったたれ。落花生の甘さにしょう油が合わさり、香ばしさと甘じょっぱいコク深さがこれまたビールにぴったり。
本当に、良き時間というのはあっという間に消えゆくもの。気づけば松川の刻む谷を夜の気配が浸食し、もう間もなく迎える漆黒の闇。大浴場で2種の源泉に身を委ね、頭を流しこの旅最後の夜に備えます。
お昼を我慢した分、いつも以上に感じる空腹感。首を長く長くして待ち、18時になったところで食堂へと向かいます。今夜も食卓には、趣向を凝らしたおいしそうな品々がずらり。そしてこの量、ご主人の言うとおりにしておいてよかったかも。
浜千鳥を片手に、まずは前菜から。さっぱりとしたほたてのマリネに、つるりと旨い大好物のナラタケ。ちなみにこのナラタケ、青森ではさもだしと呼ばれていますが岩手ではボリというのだそう。
そしてさらにテンションが上がってしまう、僕的山菜の女王であるミズ。若い茎の瑞々しさもさることながら、今回はこりっとした歯ごたえとぬめりが魅力のミズのこぶのしょう油漬け。もうこれだけで、日本酒何合いけるやら。
滋味がぎゅっと詰まった鱒のお刺身や、魚介の酢〆と湯葉の和えものも海辺の酒浜千鳥と好相性。岩魚はほっくりと塩焼きにされ、小鉢に載せられたビーフシチューはとろりと柔らかいお肉に絡むソースがいい塩梅。つぶの旨煮も肝までおいしく、色々なものをちょっとずつ味わえるのも嬉しいところ。
かぶの蟹肉詰めにはゆば餡がかけられ、とろりとした上品なおだしとかぶのジューシーさを味わえます。天ぷらには、からっとジューシーなとり天や大好物の行者にんにくも。
そして今夜のメインは、短角牛の陶板焼き。赤身の肉々しい旨味と白身の甘味をしっかり感じ、その牛の風味の移った焼き野菜もまたおいしい。最後にご飯を一杯もらい、ミズのこぶやちりめん山椒とともに平らげ大満足で夕餉を終えます。
ぱんぱんになったお腹を抱え、布団に転がりしばしぼんやり。お昼を抜いておいて正解だった。食後の苦しさは意外と早めに収まり、落ち着いたところで夜の露天へ。
しゅぅしゅぅと音を立てる地熱暖房の排気、浴槽に導かれぼこぼこと湧きたつ蒸気の振動。大地の力をダイナミックに感じさせる湯に抱かれ天を仰げば、漆黒の夜空に瞬く幾多もの星。その冷たくも凛とした輝きに、こんな夜がいつまでも続いてくれたらと願ってしまう。
部屋に戻り、ひとり静かに宴の続きを。半分取っておいた南部富士を味わい、続いて開けるのはまたワイン。昨夜に引き続き、紫波フルーツパークの自園自醸ワイン紫波メルローを。
ひと口含むと、まず感じるのはしっかりとした渋味。飲み進めてゆくとその渋味が深みへと変化し、当初感じたほどよい酸味と余計な甘さのない凛とした味わいからまた違った印象に。
米と葡萄の恵みを噛みしめ、気が向いたら雪見露天へ。氷点下の尖った夜風に吹かれ、より一層際立つ白濁の湯のもつ温もり。更けゆく松川の静かな夜。その深い懐にどっぷり抱かれ、心ゆくまで白銀の世界との対話を愉しむのでした。
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