奥鬼怒で迎える穏やかな朝。窓から漏れる陽射しに起こされ外を眺めてみれば、今朝も穏やかな青さを見せる春の空。早速露天風呂へと向かい、爽やかな朝の空気の中シルキーなにごり湯と戯れます。
朝風呂で頭もお腹も空っぽになり、お待ちかねの朝食へ。焼鮭やしらすおろし、食卓で焼くベーコンエッグに大好物の平家納豆。どれも白いご飯と間違いない相性の良さで、やっぱり今朝もしっかりとおかわりしてしまいます。
そして印象的だったのが、かんぴょうの煮物。薄味で煮られたかんぴょうは柔らかく、だしを吸って穏やかなおいしさに。そう言えば、かんぴょうのおいしさを知ったのはやっぱりこの宿だった。前回泊まった時に食べたかんぴょうの卵とじで、それまで巻物の具や「結ぶもの」程度の認識だったかんぴょうのおいしさに驚いたことを思い出します。
おいしい朝食で一杯になったお腹を落ち着け、再び露天風呂へと向かいます。さすがは栃木。入口にはどっしりとした大谷石が使われており、重厚な雰囲気を醸しています。ちなみに内湯の入口や浴槽にも大谷石が用いられています。
今日の気温は、昨日よりもさらに暖か。ほの青く白く濁るお湯は、柔らかな春の空の色を映したかのような美しさ。チェックアウトの時間も過ぎ、残る僕はこの白濁の湯を独り占め。静寂の訪れるこの瞬間が、僕にとっての連泊の醍醐味。
温度や景色、深さが好みの一点を探し出し、ゆっくりと肩を沈めてゆく。濃すぎず薄すぎずの絶妙なにごり湯が肌へとするりと馴染み、包み込まれているような浴感に酔いしれる。深く深く息を吸い込めば、胸の奥まで満ちる硫黄の香。呼吸を通してまで、この空気感に酔っていたい。
芯に残る湯の火照り、肌から漂う湯の香り。そんな湯上りのひとときを極上のものにしてくれる、しっかり冷えた金の星。その刺激と苦みを喉へと通し、冷たさが心の底へと落ちゆく様を噛みしめます。
昼飯前のいけないビールに身を委ねていると、朝に注文していた天ぷらそばが到着。小えびの殻の香ばしさが甘めのおつゆに浸み出し、太く黒い蕎麦にしっかりと絡みます。
そんなおいしいおそばのお供にと、これまたいけない昼酒を開けることに。宇都宮酒造の醸す四季桜純米生貯蔵酒は、酸味とフルーティーさを感じるおいしいお酒。
このだらり感、一度知ってしまうとやめられない。連泊のもつ甘美な誘惑に身を任せていると、ふと窓の外に感じる何かの気配。すぐさま見てみれば、急斜面をすらりと歩くニホンカモシカ。やっぱりここは、関東最後の秘境に違いない。
ただ食べて飲んで、寝転がって浸かるだけ。欲するときに浴場へと向かえば、この至極の湯が待っているという贅沢。ただ何もせず、ぼんやりと湯の温もりに揺蕩い景色を愛でる。こんな日が、明日も明後日も続いてくれたなら。なんてより一層の贅沢を望んでしまう、悪い癖。
部屋へと戻り、窓を開けてぼんやりと。一昨日、いや、昨日までしっかり積もっていた残雪も、今日の暖かさでだいぶ雪どけが進んだよう。渓流沿いには夏場に使われるというプールがはっきりと姿を現しました。
そしてあっという間に迎えてしまった、加仁湯での最後の宴の時間。今宵もおいしそうな品々が並びます。揚げたての天ぷらはサクサクで、これまた熱々を持ってきてくれた蒸し物は、鶏つくねの蓮根あんかけ。ふんわりとした肉団子に、しその実の香りと蓮根の食感が楽しい餡が絡みます。
そして今夜のお造りは、鹿のたたき。全く癖のない鹿は表面が炙られ、噛めば広がる香ばしさと滋味がたまりません。獣肉、好きだけれどなかなか食べられない。思いがけない出会いに、思わず顔がほころんでしまいます。
山の恵みに舌鼓を打っていると、前の席の方がにごり酒を注文。どれどれとチラ見してみると、ものすごく濃くて旨そう。ということで思わず注文した、公達にごり酒。濃厚ながらすっきりと辛く、これは食中酒にもってこい。
大満足の夕餉を終え、部屋へと戻ります。にごり酒の余韻にしばし微睡んだところで、夜の露天へ。夜闇に浮かぶ木々や岩肌を愛でつつの湯浴みは、昼とはまた違った風情に溢れています。
あぁ、いい時間だなぁ。掛け値なしにそう思える夜には、やっぱりお供が欲しくなる。今夜開けたのは、日光市は渡邊佐平商店の鬼笑い純米酒生貯蔵。酒造好適米であるとちぎ酒14で醸したお酒は、きりりと辛い中にも甘酸っぱさや旨味を感じるおいしいお酒。
怒っていた鬼も笑い出すほど旨い酒を味わっていると、いつしか窓の外からは雨音が。だんだんと強さを増す春の雨。こうして少しずつ残雪も溶けてゆくのだろう。
旅を決めたときには、まさか関東で雪どけの瞬間に立ち会えるとは思ってもみなかった。東京では、夏日も出始める4月半ば。今自分が体験していることが、夢か現か。そんなことすらどうでもよくなり、奥鬼怒での最後の夜は更けてゆくのでした。
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