東京から新幹線を日本最速で駆け抜け、在来線へと入り奥羽山脈へと挑むこと2時間47分。俊足と粘り強さを兼ね備えたこまち号は、定刻通りに田沢湖に到着。何度降りたっても、この瞬間はぞくぞくする。この駅は、幾多もの秘湯へと誘う魔境への玄関口。
これから3泊、ひとつの宿にこもりっぱなし。そんな夢のような自堕落へと備えるため、駅前に位置する『田沢湖市』で夜のお供を買い込むことに。
毎度のことながら、一回の滞在でこれだけ飲み干すのかと我ながらびっくり。すっかり重たくなったリュックを背負い外へと出れば、先ほどまでは降っていなかった大粒の雪が。
久々の冬の秋田、なんだか歓迎されているみたい。空から舞い散る白さにこころを染めていると、大好きなあの温泉郷へと僕を連れて行ってくれるバスが到着。『羽後交通』の乳頭温泉行きに乗り込み、一路魅惑の地を目指します。
駅前は雪が少なかったものの、田沢湖へと近づくにつれ白くなりゆく冬の車窓。雪原の先には頭を隠した秋田駒が横たわり、これから向かう地への期待は高まるばかり。
白銀に覆われた田園の眩さに目を細めていると、バスは日本一の水深を誇る田沢湖の畔へ。木々の隙間から覗く静かな湖水は、奥に秘めたる深みが滲み出るかのような鉛色をしています。
穏やかで美しくも、どことなく畏れを抱かせる。この時期ならではの表情をみせる湖水に別れを告げ、いよいよ山手目指して勾配へと挑み始めるバス。車窓にはしなやかにのびるゲレンデが幾筋も見え、滑ったら気持ちよさそうだと久々にスキー欲が掻き立てられる。
バスは水沢温泉、たざわ湖スキー場と標高を上げ、大きな宿の並ぶ高原温泉エリアへ。鶴の湯への乗り換え地点であるアルパこまくさへと登る道からは、遠くにうっすらと滲む田沢湖の姿が。
ウィンターリゾートの空気感を纏う高原温泉を抜ければ、目指す乳頭温泉まではあと少し。行き交う車も減った道を森の中へと進んでゆけば、次第に厚みを増す純白の雪。そうだよ、これだよ。この銀世界に逢うために、この時期ここを選んだのだから。
駅から白銀に染まる車窓を愉しむこと50分足らず、バスは終点の一つ手前の乳頭温泉バス停に到着。そこから坂を下ってすぐのところにあるのが、これから3泊お世話になる『大釜温泉』。小学校の旧校舎を移築した、白銀に映える渋い佇まいが印象的。
これまで二度ほど立ち寄り湯でお邪魔したことはありますが、泊まるのは今回が初めて。帳場で宿帳を書き、早速自室へ。ここがこれから3泊、僕の城。そう考えるだけで、静かなるわくわくが止まらない。
さっそく浴衣に着替え、いよいよ12年ぶりにあの湯との再会を果たすときが。あれ?なんだか前よりも色が濃くなっている?それが僕の第一印象。後で写真を見返してみると、やはり前回よりも鉄色が強めに出ているようです。
その色味の通り、入る前から鼻をくすぐる金気の香り。たまらず掛け湯をして浸かれば、全身を委ねるのにちょうど良い塩梅の湯加減。大きな湯船には含鉄-単純酸性泉が惜しげもなく掛け流され、端から勢いよく零れてゆきます。
気持ぬるめのお湯に、肩までどっぷりと浸かり目を瞑る。肌に感じるキシキシとした浴感、鼻腔をくすぐる鉄と硫黄の香り。聞こえるのはとぷとぷと湯の落ちる音と、ときおり響く桶の音のみ。
逆上せるような感覚はなく、湯疲れするわけでもなく。でもしっかりと感じる、この湯の持つ圧のようなもの。大地から産みだされた湯力に芯から温まったところで、今度はこれまた大きな湯船の待つ露天へ。
おぉ、ぬるい。積雪のこの時期は源泉の温度が低下するのでしょうか、だいぶ低めの湯温となっています。でも不思議なことに、一度浸かってしまえばじんわりと揺蕩うような心地よさ。頭を湯船の縁に預け全身を湯へと投げ出せば、日々のあれこれはすっかり霧散し無に満たされるだけ。
雪に埋もれる露天でひたすら放心状態に身を委ね、最後に内湯でしっかりと温まり自室へ。汗も掻かず、火照った感覚もない。それなのに、芯からしっかりと温まりゆるりと解ける感覚が心地よい。
久しぶりに来たけれど、これは気持ちの良い湯だ。湯上りならではの充足感に包まれ味わう、冷たいご褒美。これがこれから、3泊も。その揺るぎない事実に、頬を緩ませずにはいられない。
じんわりとした湯上りの余韻に浸っていると、遠くから聞こえてくる鐘の音。この宿の夕食は6時。時間になるとご主人が鐘を鳴らしながらやってきて、支度ができたことを教えてくれます。
広間へと向かうと、食卓にはおいしそうな品々が。まずは鴨ロースやそばの実なめこといった前菜つまみに、地酒秀よしをちびり。たけのこの根元の部分を煮たものは、見た目とは裏腹に全く繊維質を感じさせない歯切れの良さ。心地よい歯触りと風味に、おちょこのペースが速まります。
山の宿らしく、山菜が並ぶのも嬉しいところ。わらびのお浸しはしゃきしゃき感とぬめりがおいしく、ふきのくるみ味噌和えも心地よい食感とそれを彩るコクある旨さがたまらない。
そして目を引くのが、コンロで炙られる2品。鮎の干物は両面をしっかりと焼き、パリッと頭から。香ばしさの中にもジューシーさが宿り、ふんわりと香る鮎の風味が秀よしをより一層旨くしてくれる。
一方のコンロで湯気を上げるしいたけは、塩とおしょう油お好みで。まずは宿の方のおすすめである塩から。うん、こりゃ旨い。飾り気のない直球でくる素朴な味わいに、思わずひとり頷きます。続いてしょう油を垂らして。発酵食品の旨味と香りをまとった焼きしいたけは、言わずもがなの王道の旨さ。
山の温泉宿ならではのごちそうに、どんどん地酒が進んでしまう。そんなハイペースを落ち着かせてくれる、秋田名物じゅんさいの清涼感。茹でたての稲庭うどんはコシがあり、つる肌の食感が火照った口に心地よさを連れてきます。
山の幸と地酒の口福を噛みしめていると、続いて運ばれてきた熱々のきりたんぽ。立ちのぼる湯気に誘われ、まずはおつゆをひと口。沁みる、沁みすぎる。濃すぎず薄すぎずの絶妙な塩梅のしょう油の汁に、しっかりと染み出た鶏やきのこの滋味深いだし。
続いて、煮崩れのないきれいなきりたんぽを。うわっ、なにこれ、ものすごく旨い。ねっちょりと潰しすぎず、かといって米粒でもない絶妙な半殺し。外はしっかり味染み、中は白いご飯の旨さの残る絶妙な煮加減。ちょっとこのきりたんぽは、控えめに言って衝撃的。
山の滋味に溢れた品々に秀よしを空け、最後は白いご飯といぶりがっこ、じんわりと旨味の詰まったきりたんぽのおつゆという最高の顔ぶれで〆ることに。苦しい食べすぎと言いつつおひつのご飯を全部平らげ、大満足で夕餉を終えます。
食後に布団に転がり、ぱつんぱつんのお腹を落ち着けたところで今宵の供を開けることに。まずは大仙市の福乃友酒造、純米吟醸原酒冬樹を。黄色味を帯びた見た目の通り、甘味酸味旨味がガツンとしっかり。それでいてすっときれのある後味で、飲み飽きせずちびちびじっくり味わいたい旨い酒。
続いても大仙市、鈴木酒造店の秀よし純米吟醸酒松声。きりりとした印象の秀よしですが、このお酒は柔らかい甘味や旨味を感じるするりとした飲み口。でもそこはやっぱり秋田の酒、最後はしっかりときれる後味の良さが印象的。
あとはもう、こころゆくまでお湯と酒に揺蕩うのみ。無音の部屋で羽後の酒をちびりとやり、ふと冷えを感じたら気の向くまま静かな湯屋へ。そこに待つのは、大きな湯船に満たされた色も香りも濃い至福のにごり湯。
凛と張りつめた夜気の中、静かに身を沈めるぬるめの湯。とぽとぽとぽとぽ・・・。絶えず耳へと届く湯の落ちる音に誘われ、いつしか軽い放心状態に。そんな頭もこころも空っぽになった状態で眺める、清らかなこの季節だからこそのこの情景。
春夏秋冬、四季折々を直接肌で感じることのできる露天風呂。それぞれ良さはあるけれど、僕はやっぱり冬がいい。
あたり一面を埋め尽くす純白の雪、それに埋もれるようにひっそりと満たされる黄金の湯。あぁ、来てよかった。理屈なしに生まれるそんな感情に身を任せ、久々の冬の乳頭の情緒にこころゆくまでどっぷりと浸るのでした。
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