瀬見温泉から列車を乗り継ぐこと2時間10分、仙山線は山寺駅に到着。ホームからも眺めた圧倒的な光景をもう一度見上げ、目の前の山に挑む決意を固めます。
とはいいつつも、腹が減っては戦はできぬ。時刻は13時過ぎ、まずは山形名物のそばで力をつけることに。今回は駅の目の前に位置する『焔蔵山寺店』にお邪魔します。
瓶ビールを飲みつつ待っていると、程なくして十割げそ天板そばが到着。その太さや色合い、そして盛りの良さに、食べる前からにやけてしまいます。
まずは黒めの太いおそばから。十割そばですが、そうとは思えぬコシとつるりとした食感。程よい太さにより、「主食としてそばを食ってるぞ!」という満足感が口中に広がります。
続いては、これまた山形名物であるげそ天を。正直に言いましょう。僕が今までげそ天と思って食べてきたのは、一体何だったのだろうか。そう思うほど、ちょっと衝撃的な旨さ。
カリッとサクッと、厚すぎず薄すぎずの軽い衣の中には、絶妙な太さのゲソ。歯切れのよいぷりっぷりの食感とともに、クセや臭みのないイカゲソのもつ旨味のみがぶわっと溢れます。
風味のよいそばを啜り、げそ天をちょうどよい塩梅のおつゆに付けて。その油のコクに、もうひと口そばが欲しくなる。そんな無限のループを愉しみ、気づけばたっぷりあったおそばもげそ天もあっという間に無くなってしまいました。
最初は芋煮そばと迷ったのですが、げそ天を試してみて大正解。新たな山形名物の魅力を知り、お腹も心も思いきり満たされいよいよ山寺へと挑むことに。
赤い欄干の宝珠橋を渡ると、いよいよ道は上り基調に。両側にお店の並ぶ門前町を抜け登山口と書かれた石段を登れば、山寺の本堂である根本中堂とご対面。その重厚な佇まいからは、自然厳しい奥羽山脈の懐で670年近く重ねてきた歴史が滲み出るよう。
山寺に来るのは十年近くぶりのこと。不滅の法灯の点る根本中堂に再訪のお礼を伝え、奥の院目指して歩みを進めます。するとすぐに現れる、松尾芭蕉と曽良の銅像。木陰で休む姿に、往時の道中に思いを馳せます。
その先に待つのは、鎌倉時代築と伝えられる山門。ここをくぐれば、いよいよ石段の連続へ。奥の院まで800段以上もの道のりを前に、一旦立ち止まり息を整えます。
山門脇の料金所で入山料をお支払いし、意を決して最初の一歩を踏み出します。以前訪れたときは、まだ三十代。四十を過ぎて、あの道のりをどう感じるのか。そんな期待と不安を抱きつつ、焦らず一段一段登ってゆきます。
確かにきつさは感じるけれど、それ以上に清々しい。鬱蒼と繁る杉木立の緑はこころを鎮め、頭上の青さに立ち止まり天を仰げばこの光景。鮮やかな秋空に、むき出しとなった無骨な岩肌。その境界を彩る木々の色味に、思わずハッとさせられる。
青空と自然の造形美の鮮烈な対比に心奪われていると、その麓には芭蕉の句のしたためられた短冊を埋めたとされるせみ塚が。閑さや岩にしみ入る蝉の声。この句を初めて知った小学生当時、そこがどんな場所なのかと無性に気になったことが懐かしい。
その後20年以上の時を経て、大人になって初めて訪れた山寺。山を覆う豊かな緑、時折現れる荒々しい岩肌。下界の音などまったく届かぬ静寂と、そのままの世界観に驚いたことを思い出します。
たった十七音に情景を封じ込める。俳句って、写真のようなものなんだな。まったく俳句に明るくない僕が、山寺でそう直感的に思えた。そんな思い出の地への再訪の歓びを噛みしめつつ足を動かしていると、急な石段の先に聳える仁王門に到着。
ここまで来れば、あと少し。その先も続く石段を登り振り返れば、圧倒的な説得力をもつこの眺め。そそり立つ岩山に建つ開山堂、その奥には秋の空に輝く緑の山並み。遠と近。奥行きあるふたつの空間が織り成す、極めて濃密な陰と陽。
この瞬間を全身で受け止められただけでも、ここまで登って来た甲斐があった。山寺を開いた慈覚大師の眠る開山堂にお参りし、さらに岩を登りいよいよ五大堂へ。ここから眺めると、岩山から本当にせり出して建てられていることが分かります。
五大堂へと足を踏み入れた瞬間、全身を撫でる秋の風。その爽やかさを享受しつつ眺める村山のうつくしい山並みは、大袈裟ではなく一生忘れ得ぬほどの強い感動を胸へと刻む。
前回訪れたときも、あまりのうつくしさに息を呑んだ山形の大自然。幾重にも折り重なる山々のなか、延々と連なる人々の営み。ここで出逢える体験は、容易に言語化することなどできやしない。
人々の暮らし息づく麓とは対照的に、荒々しい岩山に刻まれた修行の痕跡。自然と人工の得も言われぬ融合に、言葉を失いただ茫然と見つめるのみ。
秋風吹き抜ける五大堂でしばし無心に揺蕩い、十年ぶりの新たな感動を胸へと刻みさらに先へと進みます。
色づきはじめの紅葉越しに望む、山里のうつくしさ。白い雲の浮かぶ青い空、どこまでも連なる山々。川の刻む谷沿いには人の営みが寄り添い、この光景はまさに一幅の絵のよう。
登山口から1000段以上もの石段を登り、ついに奥の院に到着。一歩一歩登るごとに、煩悩を消してゆくという修行の道。煩悩だらけの僕は、その中の少しだけでも手放すことができたのだろうか。
すべて手放すつもりもないけれど、欲張りすぎないことが心地よく感じはじめたここ数年。三十代のときにここまで登ってきた時は、そんな感覚なかったな。
きっとそれは、歳をとったからだけではない。自分なりに欲張って、色々な経験ができたからこその今なのかもしれない。この十年、色々なことがあったけど。でも確実に、その記憶の中には質量が伴っている。四十を越えて、そう思えるようになるとは当時の自分には想像できなかった。
あまり宗教とは縁のない僕だけど、稀に何かを感じる場所や瞬間がある。それは神様や仏様の力か、それとも土地のもつ力なのか。あるいは、そこに身を置いて向き合う自分の内側なのか。
その理由など、どれでもいい。その感覚に出逢えるからこそ、旅というものをやめられない。十年ぶりの山寺で自分的変化を感じ、なんとなく温かい気持ちで木漏れ日のなか下山します。
心情面での変化も感じるということは、当たり前ながら身体面でも変化しているということ。思ったよりもきつかったらしく、膝が笑いふくらはぎもパンパンに。
おお、自分の老化よ・・・。現実に直面しつつ駅を目指し歩いてゆくと、河川敷に気になる大鍋が。この二代目鍋太郎は、2017年まであの有名な日本一の芋煮会で使われていたものだそう。間近で見ると、この鍋一杯に芋煮を作っていたことが信じられない大きさ。
そりゃぁ、あんだけ旨いもんなんだからな。山形の人々の芋煮に対する愛の大きさを目の当たりにし、駅へと歩みを進めます。振り返り、もう一度見上げる山寺の姿。十年後、五十代になっても登れるように頑張らなければな。
長い長い石段と向き合い、山形の自然や修行の歴史の織り成す雄大な景色を浴び。久々に訪れた山寺で、新たに出逢えた幾多もの感動。それは三十代のときに感じたものを上書きするのではなく、地層のように積み重なってくれるだろう。
同じ場所でも、季節や天候が変われば違って感じる。そして何より、時間の経過が自分の変化に気づかせてくれる。旅を重ねる中で同じ場所を訪れる意味を強く感じ、この生き甲斐と出逢えて本当に良かったと心の底からそう思うのでした。
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