9月初旬、東京駅。ここから僕の壮大な旅が幕を開ける。あの航跡が忘れられず、今年も決行することとなってしまった0泊4日。前回とは逆回りの行程は、一体どんな感動をくれるのだろう。

いわきを目指し、ひたち号は定刻通りに東京を発車。本当に、この瞬間はゾクゾクする。これから出逢えるであろう壮大な旅路への高揚感が、冷たい金星を一段と旨くする。

下町を抜け常磐線の複々線へと入れば、いよいよ爆走をはじめるE657。あれ、ひたちってこんなに速かったっけ?そう圧倒されているとあっという間に茨城県に入り、車窓にはれんこん畑がひろがるように。

最高時速130㎞/hの力走に身を委ねていると、今度は栗の木や田んぼが目立つように。茨城といえば、食材の宝庫。れんこんや栗、お米などの農産物に畜産水産と何でもござれ。そんな名産物が流れゆく車窓を、年甲斐もなく食い入るように見つめてしまう。

東京から爆走するひたちに揺られることあっという間の1時間13分、水戸に到着。あまりなじみのない常磐線の車窓の新鮮さもあろうが、体感的にこんなに近かったのかと改めて驚き。

水戸へと来たら、まずは黄門様ご一行にごあいさつ。この姿を見ると、条件反射的に明るいナショナルと人生楽ありゃ苦もあるさが脳内再生。子供のころしか見ていなかったのに、一体どれほど刷り込まれているのだろう。

水戸駅での大事な儀式を無事に終え、1階のロータリーから『茨城交通』の偕楽園行きバスに乗車。これから向かうはもちろん偕楽園。系統により下車するバス停が異なりますが、多くの便が発車する4番のりばには分かりやすい地図があるのでそれを参考にします。

水戸駅を発車し、街の中心部を走るバス。駅前しか知らなかったが、これは街歩きも楽しめそうだ。点在する古き良き建物や水戸城跡にはやくも再訪を願いつつ、20分ほどで好文亭表門入口バス停に到着。

バスは現在の玄関口となっている東門も通りますが、せっかく初めての偕楽園、正規ルートともいえる表門から入ることに。

戦火も免れ開園当初から遺るという表門を抜けると、そこに広がるのは鬱蒼とした林。それを背負う杮葺きの一の木戸が、この先に待ち構える幽玄の世界へと誘うよう。

一歩足を踏み入れれば、さきほどまで住宅街を歩いていたことを忘れさせるような空間が。陰陽思想に基づき設計されたという偕楽園。表門から入園した者をまず出迎えるのは、木々の茂る陰の世界。

ゆるやかにくだる坂の左手には、幾重にも折り重なるようにしてのびる竹。この孟宗竹林は、偕楽園を造った九代藩主徳川斉昭が弓の材料として京都から移植したものがはじまりだそう。

千波湖に面する崖線上に位置する偕楽園。自然の高低差を活かすように設計され、歩くごとにその表情は豊かに変化。

順路に従い崖を下ってゆくと、清らかな水が滔々と湧き出る吐玉泉。四代目となる井筒は、常陸大宮で採掘された寒水石。その独特な白さが、昼なお暗い林の中で浮き出るよう。

開園以来枯れることのないという泉の横には、見上げるほどの杉の巨木が。かつてこの周辺には大きな杉が5本あり、太郎から五郎まで大きい順に名が付けられていたそう。推定樹齢800年ともいわれる太郎杉。見る者を圧倒するような枝ぶりが、生きてきた時の長さを思わせる。

ふたたび崖線上へと登り、ゆったり歩く静かな園内。天を目指すようにのびる杉木立、その足元でさらさらと風に吹かれる熊笹。そんな幽玄な世界観の中ぽつりと佇む、茅葺の好文亭中門。

領民ととも(偕)に楽しむ場として斉昭公が造った偕楽園。自身の別邸のみならず、領民との交流の場としての役割も兼ねたという好文亭を見学することに。

玄関をくぐり、まずは奥御殿とよばれる平屋へ。昭和20年に水戸空襲で全焼し、その後昭和33年に復元された好文亭。その11年後に落雷により奥御殿はふたたび焼失しますが、昭和47年に二度目の復元工事を経て現在へと至ります。

藩主夫人の休養の場や、城内で出火した際の備えとして建てられた奥御殿。10室ある部屋はそれぞれ植物の名前が付けられており、それにちなんだ襖絵が描かれています。

艶やかに枝葉をのばす紅葉の間、その隣には瑞々しさと生命力に満ちた竹の間。

梅の間には、偕楽園の象徴ともいえる紅梅白梅の襖絵が。力強さを感じさせる枝ぶり、そこに咲く可憐な花や小さなつぼみ。それを見守る満月が、早春の凛とした夜風を思わせる。

一面に繊細な花が咲き乱れる萩の間。涼しげな月の輝く情景が、秋の夜長を感じさせる。

四季折々の彩りにあふれるそれぞれの部屋。桜の間には、襖いっぱいに咲き乱れる満開の山桜。そのやわらかな色味が、見る者のこころを染めてゆく。

梅が有名な偕楽園ですが、つつじの名所でもあるそう。つつじの間の襖には、可憐な花がこれでもかと枝葉を埋め尽くす。

その対面には、清楚な表情を浮かべる白つつじ。まったくもって芸術に疎い僕でも、奥御殿に繰り広げられる四季の彩りにこころを打たれる。

艶やかな日本の美に満ちた奥御殿から好文亭本館へ。そのふたつの棟をつなぐのが、ゆるやかに弧を描く太鼓廊下。外の緑がやわらかく漏れる篠窓は、斉昭公が考案したものだそう。閉めると外からは窓の存在がわからなくなる、おもしろい造りとなっています。

太鼓廊下を抜けると、茶坊主が控えていたという二畳の座敷へ。その先には、優美な形をした華燈口が客人を出迎えます。

漆塗りの艶やかな総板張りがうつくしい、東塗縁。この部屋では、80歳以上の家臣と90歳以上の庶民を招いて養老の会が開かれたそう。

外の光を鈍く映す黒々とした床に目が行きますが、見上げればなんとも緻密な網代張りの天井。華美とは一線を画す贅を尽くした空間に、武士の美意識というものが込められているよう。

階段をのぼり、2階の武者控を経て楽寿楼と名付けられた3階へ。床柱には薩摩藩主島津斉彬から送られた竹が、特徴的な丸窓には陣太鼓を作った際の余材が使われていたそう。

楽寿楼からは、息を呑むような圧巻の眺望。陰と陽、偕楽園に流れるそのテーマをここで初めて実感。鬱蒼とした林を抜けたどり着く先には、見事な展望が待っていた。

畳に正座し、涼やかな風に吹かれしばし放心。自然の高低差、そして千波湖という借景を活かした爽快な景色。その眺望を妨げることのないようにと戸袋の配置も工夫され、藩主のこだわりがいかに込められているかが伝わるよう。

多彩な才能を持っていたという斉昭公。1階の調理室で作ったお膳を3階の楽寿楼へと運ぶため、日本初のエレベーターである配膳用昇降機も設けられたそう。

見事な建築美を誇る好文亭を後にし、広々とした見晴広場へ。その横には、偕楽園といえばの広大な梅林が。もともと梅が少なかったという水戸。花を愛でるだけでなく梅の実を兵糧や産業に活かすべく、江戸から送った梅の種でこの地に梅畑を造ったのがはじまりだそう。

早春には梅の花、そして初夏には満開のつつじ。その季節を過ぎた晩夏の今、この明るい広場には豊かな緑に満ち溢れている。

いつかはと思いつつ、ようやく訪れることのできた偕楽園。兼六園や後楽園とはまったく異なる雰囲気をもつ、自然の地形を活かした独特な情景がものすごく印象的だった。陰と陽。その鮮烈な対比にこころを打たれ、余韻に浸りつつ東門の隣に位置する常磐神社へ。

明治元年に偕楽園に祠堂が建てられ、明治7年にこの地に造成された常磐神社。光圀公と斉昭公の祀られた重厚なお社に、こうしてはじめてこの地を訪れることのできたお礼を伝えます。

常磐神社のたもとの跨線橋で常磐線と県道を越え、千波湖のほとりへ。その横に沿うようにして流れる桜川とともに、豊かな水辺の空間が広がります。

まずは多くの人々が憩うみと好文テラスへ。農産直売所を覗きつつ湖畔へと向かい歩いてゆくと、偕楽園を造成した斉昭公の銅像が。その隣に座る子供は、のちに最後の将軍となる七郎麻呂。この地に来るまで、徳川慶喜の父が誰かなんて考えたこともなかった。旅を趣味に持ちながら、歴史音痴とは本当にもったいないな。

はるか昔、桜川が堆積物によりせき止められできた沼地に端を発するという千波湖。その後水戸藩による城下町整備の際に護岸で囲われ、水を湛えるこの姿となったそう。

せっかくなので、車通りの多い北岸ではなく散歩コースとなっている南岸を歩いてみることに。湖畔に沿って進んでゆくと、駐車場の横に展示されたSLが。このD51515号機は、昭和23年からしばらくの間常磐線や水戸周辺で活躍した車両だそう。

それにしても、本当に水戸の市街地とは目と鼻の先。鯉や水鳥の姿も多くみられ、まさに都会のオアシス。

来た道を振り返れば、遠くに見える好文亭。その背後、こんもりとした緑は杉林か。あらためてこうして見ると、偕楽園が崖線に沿って造られていることがよくわかる。

念願叶いはじめて訪れることのできた、偕楽園に千波湖。これまでしっかりと水戸を旅したことがなかったけれど、期待以上の見どころの多さに残念ながらタイムアップ。
花の季節の偕楽園も見てみたいし、弘道館や水戸城跡、街歩きといった次へとつながる宿題も。これはまた、船旅絡めて再訪だな。そんなよからぬ企みを胸に秘め、急いで駅を目指すのでした。


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