窓からもれる青白い光に目覚める朝。山の奥から滲み出る朝日の気配に、今日は良い天気になりそうだと自ずと気分も高揚気味に。誰もいない大岩風呂で朝湯を味わい、湯宿で迎える最後の朝を心ゆくまで愉しみます。
旅の宿の朝に満ちる清々しさを存分に吸い込み、すっかりお腹も空いたところで朝食へ。上品なおだしが染みた車麩の煮物、程よい塩梅でご飯を誘うきんぴらごぼう。シンプルな献立に宿る温もりに、やはり安堵感のようなものを感じてしまう。
岩盤せり出す湯船に湯が直接落とされるという、独特の世界観をもつお風呂。その野趣あふれる姿に一目惚れし、宿泊を決めた朝日荘。正直なところお値段も手ごろだし、お湯以外はあまり期待しないで訪れました。
でもここで出逢えたのは、何とも言えぬ温かさ。昭和中期の空気感を閉じ込めた宿は隅々まで手入れされ、大切に守られてきたことが伝わってくる。お料理も郷土色豊かな感じではありませんが、手作りのおかずは味付けが良く僕好み。なんだかしみじみと、心地よさを感じさせてくれる宿。
湯に体がほぐされ、宿のもつ雰囲気に心温められ。なかなか簡単には来ることのできない立地だけれど、また違う季節にも来てみたい。そのときはもちろん、3泊だな。そんな想いを込めつつこの旅最後の一浴を終え、名残惜しくも宿に別れを告げることに。
目の覚めるような冬晴れの空のもとのんびり歩き、5分足らずで平岩駅に到着。おとといは冷たい雨に打たれて眺めた駅も、今日は全く違った印象に。これはきっと、素晴らしい車窓を愉しめそうだ。
あまりにも鮮烈な冬景色を全身に受け止めていると、遠くから響く鉄橋を渡る車輪の音。宿の自室から何度も見送った大糸線。これから僕は、その車上の人に。まだ見ぬ鉄路に嬉しくもなり、去り際の切なさもあり。
糸魚川からひたすら姫川に寄り添い、谷底を伝ってきた大糸線。この先もそんな車窓が続くのだろうと思いきや、平岩を出発してしばらく走ったかと思えばトンネルに突入。大糸線で一番の長さを誇る真那板山トンネルを抜ければ、そこにはあっと驚くほどの景色の違いが。
列車は長大トンネルで標高を上げ、白馬盆地へと突入。平岩までが谷を這う地の世界だとすれば、ここから先は空の近さを感じる天の世界。この劇的な変化に、車窓好きとしては否応なしに体中に感動が駆け巡る。
僕は最近、旅に出る前にはあまり下調べをしないようにしている。それは、現地で待つ実体験が色褪せてしまわないように。だから今回も、うずうずする気持ちを抑え、大糸線について検索しないようにしていた。
だからこそ、この瞬間の感動はひとしお。日本海に背を向け、古の人々が塩を背に苦労して辿った塩の道に沿って山間へ。イメージ通りの険しい道のりが続いたかと思えば、場面は一気に転換しこの展望。あまりにもダイナミックで、あまりにもドラマチック。
平岩から驚きの車窓の変化に心奪われ26分、小さな単行気動車は南小谷に到着。糸魚川から乗り通しても、ここまで1時間ちょっと。その短い区間に、これほどまでに濃密な情景が詰まっていたとは。
ここでJR西日本からJR東日本へとバトンタッチ。ホームの向かい側に停車するのは、見慣れた顔のE127系。その姿に慣れ親しんだ文化圏まで帰ってきたという親しみと、ちょっとばかりの寂しさが。
ボックスシートに陣取る僕を乗せ、信濃大町行きの電車は定刻に発車。南小谷を出ると姫川に沿って急カーブを描き、列車はゆっくりと慎重に鉄路を踏みしめます。
鉄橋で姫川を渡り、その流れは反対側へ。大きくとられた車窓、その全体を埋め尽くす白銀に彩られた姫川の流れ。北小谷以北の急峻さはどこへやら、穏やかな煌めきに満ちています。
列車は姫川沿いをさらに南下し、次第に白馬の銀嶺が車窓を占めるように。大屋根をもつ古くからのお屋敷と、その背後に聳えるあまりにも現実感のない山並み。手前は古き良き日本、背景はアルプス。そんな違和感すら覚える、鮮烈な対比。
走るごとに、角度を変え豊かな表情を魅せる白馬の山々。雲ひとつない抜けるような冬晴れの空、大地を覆う一面の白銀。その境に連なる銀嶺は筆舌に尽くしがたい感動を見る者に与え、神々しさすら感じさせるほど。
八方までバスで来たことはあるけれど、列車からの眺めがこれほどまでに美しいものだったとは。壮大な世界感に言葉を失い呆然と釘付けになっていると、白馬に源を発するひときわ大きな支流である松川を渡る鉄橋へ。橋上からは、視界に収まりきらぬほどの雄大な光景が。
下手くそながらまだ僕が年に一度スキーを履いていたとき、憧れの八方尾根に一度だけ来たことがあった。そのときはあいにく雪は少なかったものの、あり得ぬほどの高度感と雪山の絶景を目の当たりにした。その気高さに満ちた光景は、登山家でもない素人がリフトで行ける場所とは思えぬほど。そんな思い出の八方尾根を眺め、久々にスキー欲が昂るのを感じます。
文字通りの、日本のアルプス。目に飛び込む景色の全てが鮮やかで、これ以上にないほどの白銀と空の青さの強烈な対比。自然の創り出したこの季節ならではの眩さは、忘れえぬ感動として網膜に灼きついて離れない。
車窓は再び山深さを感じるようになり、ついにずっと寄り添ってきた姫川とも別れのときが。視界が開け青木湖が姿を現せば、ここに降った雨は信濃川へ。姫川と共にあり続けてきたこの旅。2泊3日をその傍らで過ごし、どことなく切ないものがこみ上げる。
青木湖に端を発した農具川は、途中小さな中綱湖を経て木崎湖へ。仁科三湖と呼ばれるその湖沿いを大糸線は快走し、姫川の流れや白馬の銀嶺に寄り添った車窓とはまたひと味違う美しさを魅せてくれます。
南小谷から荘厳な厳冬の美に溢れる白馬盆地を越え、美しい水を湛える仁科三湖に沿って走ってきたE127系。松本盆地の北端へと駆け下りるように高度を下げ始めれば、もうまもなくこの列車の終点の合図。
積もる雪も薄くなり、先ほどまでは近くに感じられた白銀の頂との比高も増し。車窓を流れる人家も目立ちはじめ、車内に流れる到着放送。
今朝、姫川の谷底の駅を発ってから1時間半。辿ってきたその鉄路は、めくるめく情景に満ち溢れていた。いつかはと願い続けてきた大糸線の未乗区間。この日が来たことを祝福してくれるかのような冬晴れに輝く車窓を浴び、その感動は轍の如く自分の深い部分へと刻まれるのでした。
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