戦国の世から、いくつもの時代を生き抜いてきた松本城。煌めく西日を背負い凛と立つその姿からは、気品や威厳すらをも遥かに超える神々しさが溢れるよう。
本丸御殿跡から望む姿もいいけれど、やっぱり僕はお堀端からの眺めが好き。小学校3年生のとき、初めて出逢った松本城。街中に突如現れたお堀、その先に聳える天守閣。狭い世界しか知らなかった当時の僕にとって、あまりにも衝撃的で、あまりにもうつくしすぎた。
子どもながらに受けた感動は、四十を過ぎた今こうして目の当たりにしても色褪せない。それどころか、逢う度ごとに好きになる。なぜ僕は、これほどまでにこのお城に魅かれるのだろうか。
黒漆で塗られた下見板と、時を経て深みを増した白漆喰の対比が印象的な松本城。艶やかな板壁を西日が照らし、黄金に輝く天守の姿。うつくしい、本当にうつくしい。しつこいようだが、その言葉しか出てこない。
初めて出逢ってから32年、それなりに色々な経験はしてきていると思う。それでもここに立ち全身に受け取る直感的な衝動を、うまく表す言葉がみつからない。この気高さ溢れる天守からは、僕を魅了し圧倒する何かが発せられているとしか思えない。
そういえば、あのときもこんな夕暮れ前だったっけ。陽の力が弱まりゆく空の下、ただただ飽くることなく天守の姿を見つめていた。そのときの記憶が、鮮やかさをもって甦る。
それ以来、何度か訪れている松本城。そして毎回毎回、時が経つのも忘れその優美な姿に見入ってしまう。でももうそろそろ、行かなければ。名残惜しい気持ちを断ち切り、踵を返して駅方面へと戻ることに。
でもやっぱりだめだ。もう一度だけ、もう一度だけと何度も振り返ってしまう。進むごとに小さくなりゆく天守の姿を眼に灼きつけ、必ずまたここへと戻ってくるという強い決心を胸へとしまい込みます。
意を決して松本城に別れを告げ、駅を目指すことに。せっかくなのでこれまで歩いたことのない道を行ってみようと進んでゆくと、渋い佇まいの建物が。この塩井乃湯は、大正時代に建てられた銭湯。今なお現役で塩類鉱泉に浸かれるのだそう。
今度は松本に泊まって、あんな大正ロマンを感じる銭湯で一浴もいいなぁ。そんな妄想を抱きながら歩く、夕暮れ時の街。この時間帯ならではの感傷が、郷愁を一層掻き立てる。
新旧の建物が共存する松本の街。中町通りや上土通りといった有名どころもいいけれど、暮れゆくなか歩く名も知らぬ通りの風情もまた心に沁みる。
時が止まったかのようにひっそりと佇む大きな木造家屋の向かいには、ビルの脇に残されたなまこ壁の土蔵の姿も。これ見よがしに保存されているわけでもない、人々の暮らしの中で残されてきた古い建物が僕は好き。
大通りを進んでゆくと、その脇にこれまたレトロな建物が並ぶ一画が。時代を感じさせる緻密なタイルで記された屋号と、それを囲む渋いスクラッチタイル。小さくも存在感を放つこの建物は、商店かなにかだったのでしょうか。
観光地とはひと味違う、暮らしの息遣いを感じながら歩く松本の街。暮れゆく空色、薄まりゆく街の色彩。もう間もなく夜を迎えようかというこの時刻だからこその郷愁に、旅の終わりの気配を重ねるのでした。
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