こぼれんばかりの八重山の夏を浴びつつ港から歩くこと約30分、今日も眩いほどの輝きに満ちるコンドイビーチに到着。それにしても、あおい。今年は本当に、あおい日々に恵まれている。
何度対面しても、ため息の出てしまうこの光景。思わず目を細めるほどの輝きは、遠浅の海を支えるどこまでも白い砂地があってこそ。白いキャンバスに映える海のグラデーションに、もう語る言葉すら出てこない。
お気に入りの場所を見つけ、シートを敷きTシャツを脱ぎ捨てて。まずは一旦海に浸かり火照りを癒したところで、今日も絶好のあおさに乾杯を。堪らない。この瞬間があるから、また一年頑張れる。
今年ようやく迎えた、いわゆる「4年ぶり」の夏。10年後、このブログを読み返した時にはきっと懐かしく思い出されるのだろう。浜を多くの観光客が賑わす光景は、そういえば久しぶりのこと。
針の穴を通すほどのタイミングで訪れることのできた、2020年。一昨年は訪れることすら叶わず、去年は以前ほどではないにしろ人が戻ってきたことに何となく安堵感すら覚えた。
あぁ、夏が帰ってきた。貸し切り状態で全てを受け取ったあの夏も、忘れ得ぬ大切な想い出。だけれど、この感覚に思わず懐かしさを感じてしまう。人々の奏でる賑わいを感じつつ味わうジューシーは、そのおいしさもひとしお。
それにしても、今日も絶好調に暑い。お気に入りのしまじりストアを頬張っているうちに、肌に宿るじりじりとした熱。我慢も限界に達し、ジューシーを平らげ一目散に海へと向かいます。
冷たくもなく、温すぎず。ずっと入っていられるような、ちょうど良い塩梅の海。八重山の海って、僕にとっては限りなく巨大な天然の露天風呂。初めて訪れて以来変わることのないこの感覚は、何度味わっても最高の至福。そんな海に揺蕩い振り返れば、目を灼く青空と緑の強烈なコントラスト。
至極の夏色を網膜に浴び、居ても立っても居られず更なるあおさを求めて沖合へ。潮の引き始めた海を歩き、沖に現れた砂の島を目指します。
深いところでもお腹のあたり、カメラをもって歩ける程度の深さ。途中転がるなまこや足元をかすめる魚影を観察しつつ進んでゆけば、あっという間に中州へ上陸。より白さに輝く砂を、きらきらとなでてゆく透明な海。少し離れただけなのに、この空間を支配する別世界感。
遮るもののない砂の島、絶えず吹き渡る心地よい海風。水と砂、海と陸地。その溶けゆく境界を大きく包む、夏の青空。波と風と己の感嘆しか聞こえぬ世界に、いつしか夢と現の区別すら霞んでゆく。
全身を撫でる風の感触、絶えず足を洗う波のリズム。その心地よい冷たさに視線を下げれば、あまりに清らかな穢れのない海。その驚くほどの透明度に、眺めているうちに違う世界へと吸い込まれてしまいそうな錯覚が。
僕はずっと、あの島影を一括りに西表島だと思っていた。でも僕は、もう知っている。手前に浮かぶ島には、あり得ないほどの輝きが満ちていることを。
昨日初めて訪れた小浜島。低い島影と、その中でひときわ目立つ大岳の山容。実際訪れてみて、そこで体験してみて初めて点が線として繋がる。視界に映る景色の中に、大切な想い出が増えてゆく。これこそが、旅を生きがいにする者にとって一番の悦び。
全てが真っ白な砂でできた、時限の島。まだ潮の引ききらない海の中を、どこかへ誘うかのようにしてのびる砂の道。このまま進んでゆけば、違う世界へとぬるりと滑り込んでしまいそう。あまりの現実離れした美しさに、そんな畏れのような感情すら湧いてくる。
真っ青な夏空と、碧のグラデーションに染まる海。そのキャンバスとなる純白の砂浜を創り上げるのが、たくさん積もる珊瑚の欠片たち。これらが長い年月をかけて砕かれ、この白い砂へと生まれ変わります。
今日の竹富も、この上なく本当にあおい。ここから眺める海の色、そして対岸の小浜島から望んだ海の色。同じ海を見ているはずなのに、何故こうもその色合いを異にするのだろうか。だからこそ僕は、八重山のあおさを青とは記せない。
何度か訪れたことのある、この砂の島。その中でも、今日のうつくしさは格別だ。息を呑む絶景の数々、ビーチから少し離れるだけでさらに清らかさを増す海や砂。気づけば長居してしまい、そろそろ自分の陣地へと戻ることに。
その前に、もう一度だけ大きく、大きく深呼吸。空と海、そして陸地との境すら溶けだす、幻想的な世界。潮が引いたとにだけ現れる幻の島に流れる空気感をこころゆくまで吸い込み、大切な八重山のあおさがまたひとつ僕の胸に刻み込まれるのでした。
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