旅の最終日にしてようやく竹乃子と一年ぶりの再会を果たし、しみじみとした旨さの余韻に浸りつつ歩く道。滞在中何度も通ったコンドイビーチで、最後の竹富のあおさを浴びることに。
薄曇りの空の下、穏やかな碧さに染まるコンドイビーチ。さすがは土曜日、海水浴を愉しむ人や写真を撮りつつ歩く観光客で浜には賑わいが溢れています。
お気に入りのポイントを見つけ、シートを広げてTシャツを脱ぎ捨て。この旅で何度も繰り返してきたこの瞬間も、もうこれで最後。肌に感じるじんわりとした太陽の熱を、来年までの種火としてこころに灯し持ち帰ろう。
雲越しに注ぐ穏やかな陽射し、冷たすぎず温すぎずの心地よい海。今年もたくさん、八重山の海と戯れることができた。優しい碧さを見据えつつ、浜での最後のオリオンを噛みしめます。
溢れんばかりの絶好調なあおさに始まり、柔らかいあおさで終わりかな。そう思っているといつしか雲は薄れ、だんだんと鮮やかさと輝きを増すコンドイビーチ。
みるみるうちに青空の占める割合が増え、加速度的に戻りくる夏景色。最後の最後で、もう一度八重山の夏を感じることができた。このあおさがあれば、また来年まで頑張れる。
もうそろろそ、行こうか。いつも通り水シャワーで体を流し、水着から服へと着替え。こんな日々がまだまだ続くように感じられ、このあおさとの別れが名残惜しいというより不思議にすら思えてくる。
でも僕は、まもなく東京へ帰らなければならない。その事実を変えることはできるはずもなく、意を決して八重山のあおさに別れを告げます。でももう一度だけ、振り返って眼にこころに灼きつけよう。このあおさが僕の、燃料だから。
でもなんだろう、今年は本当に満足した。そりゃぁ8泊も居たのだから、そう思えなければバチが当たる。この島との別れが寂しくありつつも、ある種の充足感や達成感のようなものすら芽生えてくる。
いつでもまた、この島はこの輝きをもって迎えてくれることを僕は知っている。今年も存分に浴びることのできた、八重山の夏。その唯一無二の眩さは、僕だけでなくこの島に生きるものすべてに力を授けてくれるよう。
すっかり力を取り戻し、じりじりと肌を灼く太陽。その輝きを全身に受け、より一層その色彩を強めんとばかりに力いっぱい咲く南国の花。
道端に咲く可憐な花々に目を奪われつつ、汗を流しながら歩く帰り道。東京では負の感情しか生まない夏の暑さも、ここでは不思議と嬉しく思えてくる。暑い、楽しい。そんな夏本来の姿に逢いたいから、こうして毎年八重山を訪れるのかもしれない。
絶えず空から降り注ぐ鮮烈な陽射しを、豊かな枝葉で遮ってくれる大きな木。その影へと身を寄せれば、途端に肌を涼しい風が撫でてゆく。そういえば、子供のころは東京もこんな感じだった気がする。
天然素材で形作られた、竹富島での人々の暮らし。石垣ひとつを眺めてみても、珊瑚や貝といった海が生み出す自然のもの。コンクリートじゃないって大切なことなんだと、ヒートアイランドにまみれて生きる僕は改めて思い知らされる。
人々の生活と、自然との距離感。その絶妙な近さこそが、竹富島の魅力のひとつなのかもしれない。白砂の道沿いに続く珊瑚の石垣、その奥には赤瓦。そんな暮らしのすぐそばには、枝もたわわに実をつけるマンゴーの木。
今年もたくさん、竹富島を満喫できたな。この島に、一目惚れした7年前。逢瀬を重ねるごとにそれは確信へと変わり、もうすっかりここでの夏がなければ生きられぬ体になってしまった。
でも僕は知っている、次もそのまた次もあることを。また来年、帰ってこよう。そう思えば、この島とのしばしの別れも辛くはない。
今年も本当に、よい時間を過ごさせてもらいました。ありがとう、また来年。うつくしい集落を抜けもう一度だけ振り返り、心の底からとめどなく溢れくる感謝を伝えます。
あぁ、本当に愉しかった。八重山で過ごした時間は、質量が凄すぎる。抱えきれぬほどの感動をくれた日々を振り返りつつ、港を見据えて歩く道。仕方ない、一旦東京に出稼ぎに行くか。そう思えるほど、心ゆくまで満喫できた。
明日からは、再び身を置く灰色の混沌。僕の好きだった頃の生まれ故郷の姿はなく、今はただ何となく住んでいるだけの東京。でも僕は、こころの中に大切な場所を持っている。
その地というのが、東北であり、信州であり、そしてここ八重山であり。今年もこうして、屈託のない夏を浴びることができた。このあおさを胸に、来年まで生きてゆこう。今年最後の竹富の煌めきを全身に受け止め、八重山の熱を大切に胸へとしまい込むのでした。
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