微かに青さを残す夕闇から、夜を迎える漆黒へのグラデーション。翳りゆく部屋からその移ろいを飽きもせず眺めていれば、いつしかあっという間に夕食の時間。ロビーを照らす幻想的なランプの灯りに誘われ、大広間へと向かいます。
今夜もカウンターで冷酒を受け取り、自席にて今宵の泡沫の宴を始めることに。まずは大好物の岩魚から。昨日は塩焼きでしたが、今夜は田楽に変身。じっくりほっくりと焼かれた身に、しっかりと旨味とコクを纏わせる甘辛い味噌。この山の贅沢を味わえるのは、2泊目だからこそ。
今日の揚げ物は山菜の天ぷら。カリッとした食感の後に広がる風味を塩で味わえば、地酒が一層進んでしまう。1本丸ごとの焼きなすもジューシーで香ばしく、煮物の大ぶりな舞茸には鶏の美味しいだしがたっぷり。
赤魚のお鍋は、濃すぎず薄すぎずの丁度良い塩梅。その他にも、フルーティーさが堪らないアカシアの花の甘酢漬けやサーモンのカルパッチョ、コリっとしたなんだかわからない食材の紫蘇漬けなど、食べて美味しい、楽しいものばかり。〆にけの汁と白いご飯を平らげ、結局大満腹になってしまいました。
食って寝て、飲んで浸かる。電気のないランプの宿でできるのは、ただそれだけ。だけれど、ご飯が美味しく、お湯がいい。食って浸かる欲求をしっかりと満たしてくれるからこそ、飽きずに延々ぼんやりと過ごせてしまう。
美味しいご飯を食べすぎた僕は、敷きっぱなしの布団でしばしのまどろみ。お腹も落ち着いたところで、ランプの宿での最後の夜を愉しむことに。そんな舞台にと選んだのは、お気に入りの健六の湯。脱衣所を照らす弱い灯りが、湯に浸かる前から心を温めてくれるよう。
湯口から惜しげもなく掛け流される、適温の湯。無色透明で肌なじみの優しい湯に揺蕩えば、穏やかなランプの炎がすっと心を照らしてくれる。温かみのある灯りをゆらゆらと映す、きれいな湯。いつまでも、いつまでも、この大海原に漂っていたい。
静かな湯屋で心ゆくまでお湯と炎の揺らぎに戯れ、自室へと戻ります。幾多もの旅人を迎えてきた玄関からはランプの灯りがもれ、夜という闇の中、ここ一軒だけが灯りに守られているような幻想的な佇まいに。
柔らかいランプの炎と寄り添い、過ごす夜。部屋を照らす灯りは、このひとつだけ。もしこの火が消えてしまえば、もう何も見えない、どうすることもできない。それなのに、何故か感じる静かなる心強さ。
たき火や暖炉で燃える炎、囲炉裏で赤く静かに光る炭。姿かたちを変えたとしても、火というものからは不思議な揺らぎが感じられる。そして人は、それに触れると何故かほっとしてしまう。肌で感じる熱ではなく、心の底へと伝わる温かさ。そんな力が、このランプにも宿っているに違いない。
当初は楽しんでやろうと目論んでいた、不便や無の時間。でも実際は、そんなものはどこにもなかった。
電気も電波もない山間の宿では、様々なものと向き合う時間が自ずと増える。それがいで湯であったり、味覚であったり、炎の揺らぎであったり。その中で訪れる、自分の内側との必然たる対峙。そうだった、8年前も、そんなことを想っていた。
そのときは三十代序盤だった僕も、気付けばもうすぐ四十代。でもなぜか、当時しこりの様に居座っていた焦りや不安が消えている。そうか、自分の過ごしてきた8年間は、無駄ではなかったんだ。そのことに気付けただけでも、ここへ来た甲斐があった。そう思えることを、今は素直に喜びたい。
人によっては不自由で、人によっては自由な時間。この環境を、どう感じるかはその人次第。でもこんな状況など、普通に暮らしていればまず身を置くことはない。ある種の究極な体験を味わいたいがために、多くの人々がこの宿に集うのかもしれない。
見えなくて良いものは見えなくし、必要なものだけを照らしてくれる。8年前、ランプの炎に抱いた感覚は、今も全く変わらぬまま。そんな不思議な力を宿す灯りの下で、静かな夜はゆっくりと更けゆくのでした。
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