山の湯宿で迎える、この旅最後の朝。窓から漏れる弱い光に起こされ外を見れば、青白さに包まれる凛とした冬の空気が寝ぼけ眼を覚まさせてくれるよう。
まだみんな、眠りの時間。寝静まった館内を抜け出し、千人風呂で朝湯を味わうひととき。人影もまばらな千人風呂は硫黄の香を抱く湯気が支配し、足元から生まれ来る湯の温もりを、目を閉じてただひたすらに噛みしめるのみ。
酸ヶ湯の象徴ともいえる千人風呂をゆっくりと味わえるのも、今回はこれが最後。心ゆくまでお湯と戯れ、心身の奥底まで酸ヶ湯の恵みを蓄え部屋へと戻ります。今回も、本当にいい湯だった。千人風呂には、ここでしか味わえない夢が溢れている。
千の夢でこころが満たされたところで、美味しい朝ごはんでお腹も満たすことに。早起きと朝風呂ですっかり空腹になったところで、朝食会場へと向かいます。
根菜のそぼろきんぴらや大好物のたらこ、優しい味付けの中華風旨煮といった美味しいおかずとともに味わう白いご飯。家では簡単に済ませたり抜いてしまいがちな朝食を、ゆっくりしっかり味わえる。そんな贅沢な時間こそが、旅先で養える英気の源なのかもしれない。
明日からは、また日常か。ふと心に差し込む、若干の寂寥。旅の終わりに付きもののそんな感傷を抱きつつ、渋い味わいの漂う渡り廊下を進みます。
いい湯、いい味、いい風情。今回も本当に良い時間を過ごさせてもらいました。3度目なのに、色褪せない。だから何度も、来てしまう。酸ヶ湯に満ちた不思議な魅力に再訪を誓い、送迎バスへと乗り込みます。
さすがは日本有数の豪雪の地。これでも雪が少ないとはいえ、車窓には前から横からと雪壁が繰り返し迫ります。この細い雪道で大型バスを操る運転手さんもすごいし、除雪を続け通年通行を支える人もすごい。冬の酸ヶ湯を訪れる度に、雪に閉ざされることの大変さを痛感してしまう。
萱野、雲谷と山を下り、次第に消えゆく冬の気配。青森市内に着くころには、2月とは思えぬからりとした光景が広がるように。今年は姿かたちのない積雪と同じく、ランプと千人風呂に揺蕩った日々も幻かと錯覚してしまいそう。
ぽつんと佇むりんご箱の並ぶ商店にかつての賑わいを重ね、のんびり歩く冬の青森の街。行く先といえば、やっぱりここ。海峡の女王に逢うことは、僕にとっての青森での大切な儀式。
人気もまばらな、冬の岸壁。時折流れる津軽海峡・冬景色の切ない音色が、曇天の空へと響くのみ。連絡船も、夜行列車も消えたように、もしかしたら雪景色も見られなくなってしまうのかもしれない。
現役時代に生まれながら、ついに乗ることの叶わなかった青函連絡船。永遠にあこがれるだけの存在となってしまった海峡の女王と対峙し、初めて青森の地を踏んだ時を思い出す。
今年は本当に、雪がない。まだ40年も生きていない僕ですら、子供の頃とのギャップに戸惑う。日本で雪が見られるのは、いつまでだろうか。それとも本当に、氷河期がくるのだろうか。
当たり前だと思っていた日本を彩る四季の存在を、意識する瞬間が増えてきた。きっとそれは、自分が旅をするようになったという理由だけではないはず。だからこそ、今味わえる旅情を記憶に留めたい。僕の旅への憧憬を造り上げた女王を前に、チクリと胸が痛むのでした。
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