高島での滞在時間は30分あるものの、駆け足で石炭資料館を見学し船へと帰還。というのも、この先も戻った順の自由席だから。船員さんに軍艦島が見える方を確認し、一番乗りで2階デッキの左舷側に陣取ります。

ブラックダイヤモンドは、いよいよ軍艦島に向け高島港を出港。これはまた、次へとつながる宿題ができた。そんな再訪の口実を胸に、遠くなりゆく高島の姿を見送ります。

そして、ついに迎えたこの瞬間。真っ青な海と空、その境界にぽつりと浮かぶ軍艦島。ずっとずっと、モニター越しに想いつづけてきた島。それがいま、こうして眼前に在るなんて。

あまりの鮮烈な天然色、そのなかで異様な雰囲気をまとう人工物の塊。もともと小さな岩礁だった端島を、人間の様々な欲求が肥大化させた。

炭鉱施設のあった東側から、左回りにゆっくりと航行する船。北側へとまわれば、まだはっきりと原型をとどめる小中学校や病院の建物。

さらに西へとまわると、いまなお姿を残す住宅群。埋め立てでできたこの小さな島に、最大で5,300人が暮らしていたなんて俄かに信じがたい。

この距離からでも、しっかりと感じられる暮らしの残り香。それがあまりにも生々しいのは、無機質であるはずの鉄筋コンクリートに人々の記憶が染み付いているからなのだろう。

端島の姿を余すことなく魅せるべく、ゆっくりと進んでゆく船。刻一刻と表情を変えてゆき、一番軍艦のようにに見えるという位置でしばし停泊。炭鉱が稼働していた当時は、無数のあかりが灯り黒煙を吐いていたそう。その様子は、きっと今以上に軍艦然としたものだったに違いない。

海上にぽつりと浮かび、風雨や波浪の影響を直に受けつづける端島。周囲を埋め立てて造られた半人工島のため、特に護岸の崩壊が問題に。こんな海の穏やかな日にはクレーン船を着け、潜水して補修作業を行っているそう。

産業の記憶が崩壊しつつある東から、人々の暮らしの記憶が色濃く残る西側へ。船は周囲1,200mという小さな端島を一周し、まもなく岸壁へ。

近付くごとに、濃度を増してゆく島の空気感。海上からは往時の気配が感じられるように思えたが、こうして見るともう遺跡の域にまで達している。

明治から昭和にかけ、6度の埋め立て工事を経て現在の姿となった端島。石積みやコンクリートがつぎはぎされた姿は、人と自然との闘いの跡のようにも見えてくる。

洋上からの威容を存分に満喫し、ブラックダイヤモンドはついに端島に接岸。ガイドさん曰く、今月の上陸率は7割を切っているそう。はじめての挑戦で運よく上陸できるなんて、この天候に感謝しかない。

そしていよいよ迎えた、上陸の瞬間。稼働当時から残るドルフィン桟橋に降り立てば、溢れんばかりの感慨が胸を染めてゆく。

護岸のみならず、島の中央部にも聳える重厚な石垣。赤土と石灰を混ぜた凝固剤で石積を補強する、天川工法という古い技法。長年の風雨や波浪にも耐え、こうして残存している姿は圧巻のひと言。

護岸を貫くトンネルを抜け、島内へ。炭鉱施設のがれきが散乱するなか、いまなお往時の姿を伝えるべく立ち続けるベルトコンベヤーの支柱。遠くない未来、きっとこれらもがれきと化すのだろう。

島内へと入ってすぐ、まずは第1見学広場へ。そこには、端島を東西から写した空撮写真が。写真を眺めつつガイドさんの説明を聴けば、島内施設の位置関係がよりわかりやすく。

さきほど海上から眺めたアパートの奥にも、びっしりと詰め込まれた建物群。東京ドーム1.3個分に、最大で5,300人。ここまでしたからこそ、その人口を抱えることができたのだろう。

島の一番高いところには、巨大な給水槽が。水源をもたぬ小さな端島。水の確保には相当の苦労があり、海水から作る真水だけでは足らず給水船でも運搬。昭和32年に海底水道が完成するまでは、しけによる給水制限もあったそう。

稜線を右へとたどってゆけば、島のすべてを見おろすかのように聳える社宅。幹部職員住宅であったこの3号棟は島一番の高級住宅とされ、各部屋に電話や風呂もあったそう。

第1見学広場での説明を終え、つづいての見学場所へと移動。その途中には、地底616mへとつづく第二竪坑の坑口が。

第2見学広場の前はかつての炭鉱の中枢部、総合事務所や会社事務所があった場所。倉庫であったレンガ造りの壁の横でぽっかりと口を開けるのは、鉱員専用の風呂場。
海水を沸かした第1浴槽に作業着のまま浸かって汚れを落とし、同じく海水の第2浴槽で服を脱いで湯に浸かる。第3浴槽は真水を沸かしたかぶり湯で、貴重な水をいかに温存するかという苦労がここにも込められている。

左へと視線を移せば、かろうじて残る総合事務所や会議室の建物。その手前、地面に這うようにのびる構造物は地下道。桟橋のある東側は炭鉱関連施設のため、住民は立ち入り禁止。上陸した住民はこの地下道を通り、居住エリアであった島の反対側へと向かっていました。

第2見学広場での説明が終わり、さらに奥へ。するとついに姿をあらわした、巨大なアパート。大正5年築、日本初の鉄筋コンクリート造高層住宅である30号棟。日本のアパートやマンションの歴史は、すべてここから始まったのです。

奇跡の存在ともいえる30号棟も、残念ながら崩壊が進行。十年以上前、はじめてウェブサイトで見たときはもっとアパート然としたものだった。築後110年、手入れをせず厳しい環境に置かれたまま。そのため、RC造の経年劣化研究の対象としても注目されているそう。
その隣に建つのは、昭和32年築の31号棟。防潮棟とも呼ばれるこの建物は、鉱員住宅でありながら波を防ぐ役割が。護岸のみならず建物でも波浪を防ごうとするも、大しけの時にはそれすら越え島の反対側まで潮が降ることもあったそう。

周囲を高い護岸に囲まれ、水深も深く波も荒い端島の海。もちろん遊泳は禁止されていたそうで、その代替として作られたのがこの25mプール。真水が貴重なため海水が張られ、夏には島の子供たちが利用していたそう。

すべての説明を聞き終え、あとは時間まで自由行動。この世界観を噛みしめるべく、ゆっくりと歩く帰り道。もう一度振り返り、眼にこころに刻みこむ30号棟の威容。建物としての尊厳が残るこのタイミングで逢えて、本当によかった。

頑強に造られた護岸でさえ荒波によって破壊されるのだから、建物を崩壊させるなど自然にとっては簡単なことだろう。今日この眼で見た軍艦島は、もう二度と見ることはできない。その儚さに、胸の深い部分がぎゅっとなる。

もう一度ゆっくり炭鉱の遺構を眺めるべく、ふたたび第2見学広場へ。第二竪坑の脇に建つのは、二坑口桟橋。幾多もの鉱員たちがこの階段を通り、職場である海底深くに広がる坑道へと潜っていきました。

人々の造り上げた夢の跡が、次第に姿を失ってゆく。長きにわたり、一体どれほどの人がこの島で暮らしたのだろう。その記憶が朽ちてゆく様を目の当たりにし、言葉にできぬ感情に苦しくなる。

すべてが人工物に覆われ、緑なき島とまでいわれた端島。鳥が運ぶという草木が、ゆっくりとしかし着実に軍艦から島の姿へと還してゆくのだろう。

屋上に庭園を作らざるを得ないほど、自然がなかったこの島。あの学校で学んだ子供たちは、数十年後にこうして白い百合が咲く姿を想像しただろうか。

人の手が及ばなくなってから52年、だんだんと緑に浸食されてゆく無人島。このまま在りつづけて欲しいと思う反面、それもまた自然の摂理に違いない。

軍艦島の、いま一番残されている姿。今日という日に体感できたこの島の世界観を胸いっぱいにしまい込み、名残惜しくもそろそろ船へと戻ることに。ドルフィン桟橋からは、石炭の積込桟橋の橋台跡が。その足元に広がる海の青さにも目を奪われる。

45分間の滞在を終え、桟橋を離れるブラックダイヤモンド。想いつづけて十数年。人々の夢の跡がいまだ残るこの島に、今日こうして来ることができて本当によかった。自然へと還りゆくこの姿を、僕は死ぬまで忘れはしないだろう。

速力を上げる船、どんどん遠ざかる軍艦島。学校に病院、住宅に神社の祠。人々がここで暮らしたという揺るがぬ証を、もう一度肉眼を通してこころに刻もう。

なぜこうも、遺構というものに魅かれてしまうのか。昔から懐古趣味的な面があるのも確かだが、特に産業遺産にはこころを動かされる。

きっとそれは、そこに人々の想いが宿っているからに違いない。興味のない人から見れば、単なる廃墟。だがどうしても、必要あって生み出され役目を負った命ある無機物だと思えてしまう。

端島に仲良く並ぶように浮かぶ、中ノ島。かつてここも炭鉱の島であり、閉山後は端島住民が自然と親しむ公園や火葬場として使われていたそう。現在では人工物のかけらがごろりと転がるだけで、そうとは思えぬ自然の姿に。軍艦島も、いずれこのように端島の姿へと戻るのだろう。
いつかはと願い続けてきた軍艦島。モニター越しでは感じることのできなかった生々しさが、いまだ航跡のようにこころのなかで余韻を描く。
かたちあるものは、いつかかならず壊れてゆく。その儚さが、人々の描いた夢と重なって仕方がない。近代化への欲求によって生み出された、人造の島。軍艦島との逢瀬は決して忘れることのできない強烈な現実として、胸の奥深くへと突き刺さるのでした。



コメント