昼酒をちびりとやり、気が向いたら大地の湯へ。そんな連泊の甘美にゆるりと揺蕩っていると、気づけば空模様は一変。先ほどまでの青空と白い雲の眩いコントラストとは打って変わり、鈍い色の雲から絶えず舞い落ちる冬の知らせ。
うわぁ、まさかここで初雪を見られるとは。さすがは1,400m、天上の宿。湯呑酒片手にあっけにとられていると、みるみるうちに増す雪の勢い。水墨画の世界へと溶けゆく山並みを、いつまでもいつまでも眺めてしまう。
降りしきる雪の中無骨な湯船で濁り湯と戯れ、気づけばあっという間にもう夕食の時間。楽しい時間というものは、何故こうも本当に速く過ぎてしまうのだろうか。毎度の疑問に首を傾げつつ、今宵も多くの山の幸が並ぶ食事会場へと向かいます。
バイキングの内容は昨日と同じですが、連泊ということで今夜の塩焼きは鮎。ふっくらとした身に宿る独特の香りと、お腹のちょっとした苦み。山の宿で味わう川魚は、何度食べてもやっぱり旨い。
サーモンのお刺身は締まった身に旨味が詰まり、くるみ豆腐は口に含めば広がる香ばしさが印象的。好物の根曲がり竹やぜんまい、ミズのこぶといった山菜たちは滋味に溢れ、昨夜一発でファンになった鹿肉の味噌煮を噛みしめれば地酒が進まないはずはない。
数々の山の恵み片手におちょこを進めていると、連泊のサービスとして炊き合わせときのこおろしが運ばれてきました。熱々の白菜に染みた具材の旨味が、雪降る夜の体と心に沁みてゆきます。
予想外の追加料理にお腹もだいぶ満たされましたが、やっぱり食べたいひっつみ汁で〆ることに。ほかほかの白いご飯と共にずずっと啜れば、山の宿ならではのしみじみとした幸福感に包まれます。
手作りの旨い山の幸に満たされ部屋へと戻ると、何やらすりガラスの外から鈍い輝きが。まさかと思って窓を開けてみれば、そこはもう一面冬の世界。うわぁ。本当に驚くと、こんな感嘆しか出てこない。
漆黒の空から舞い散る白い使者に居てもたってもいられず、宿泊者専用の露天へと急行。肌を刺す空気の中浴衣を脱いで扉を開けば、この季節にまさか味わえると思っていなかったこの眺め。
頬にあたる冷たさに目を細めつつ、ぬくもりに浸る雪見風呂。しつこいようですが、今は10月最終週。恐るべし、八幡平。僕にこんな冬の贅沢をくれるなんて。
まさかの冬色にすっかり絆され、身も心も茹だったところで部屋へと戻ります。今夜のお供は、僕の好きな盛岡の菊の司純米酒吟ぎんが仕込。飲みやすさの中に旨味や酸味が溶け込むおいしいお酒。
旨い酒をひと口含み、思いついたように窓際へ。ガラスを開ければ、もうそこは一面の銀世界。一足早い冬からの贈り物に、このタイミングで来られて本当に良かったと心の底から思えてしまう。
あっという間に世界を塗り替えてしまった、冬の遣い。その情緒をより全身に浴びようと、誰もいない露天風呂へ。切るような凛とした空気、足に感じる雪の冷たさ。やっと辿り着いたその先に待つのは、山肌から生まれる大地の温もり。
旅することすらままならない日々だったけれど、今こうして最大のご褒美に甘えていられるというこの贅沢。旅先でしか得ることのできない手に余るような幸せに抱かれ、八幡平の夜は静かに更けてゆくのでした。
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