秋色を帯びはじめた山を背負い、谷底に佇む渋い建物。これから二晩の幸せを約束してくれる、『大沢温泉湯治屋』に到着。
もうここに泊まるのは4度目となりますが、江戸時代からの湯屋が出迎えてくれるこの瞬間が堪らない。
帳場で受付し靴を持って自室へと向かえば、あの懐かしい感覚が一気によみがえる。来る度に同じ雰囲気、同じ温かさで包んでくれる。この独特な風情に誘われ、ここまで来てしまうのです。
今回のお部屋は、中舘の十二号室。初めて泊まったお部屋の隣、川側の角部屋。障子から漏れる光が、部屋を柔らかく包みます。
鍵もなく、部屋と廊下を隔てるのは障子だけという昔ながらの湯宿の姿。その障子を開ければ、目に飛び込む水車と茅葺屋根。大沢温泉を凝縮したかのような風情には、何度味わっても色褪せぬ感動があります。
いつもならここで自炊のための食材をご紹介するところですが、今回は2泊だけの滞在。食事は併設された「食堂やはぎ」に任せ、思いっきりのんびりしてやります。
荷物を下ろして浴衣に着替え、布団を敷いてスタンバイ完了。これから2泊3日、ひたすら浸かって食べて飲んでの、幸せすぎる時間が約束されました。
早速この宿の象徴ともいえる大沢の湯へと向かい、2年振りの感覚を味わうことに。肌に感じる温もり、そして目に映る箱庭のような景色。この瞬間、僕の日常は全て消え去ります。
大沢温泉の持つ魅力を肌で視覚で心で味わい、部屋へと戻りラガーをプシュッと。そうそう、この一瞬が堪らない。旅先での大切な儀式に、アルコールではない何かにも酔わされてしまいそう。
今回は夕餉の支度も無いので、お腹が空いたと気付くまで何もせずただただぼんやり。何度か部屋とお風呂を往復し、よきところで「食堂やはぎ」へ。
木の温もり溢れる店内に腰を落ち着け、まずは地酒を。おすすめに載っていた釜石の浜千鳥純米酒を迷わず注文します。
久々の浜千鳥をちびちびと味わっていると、イカゲソピリ辛揚げと揚げ出し豆腐が運ばれてきました。
イカゲソピリ辛揚げはカリカリサクサクに揚げられ、衣の香ばしさと程よい辛味がお酒を誘います。揚げ出しは豆腐自体の味が濃く、間違いのない安定感溢れる旨さ。
ボリューム満点、安くて旨い一品料理が魅力的な食堂やはぎ。さらにカクテキとからし舞茸も自由に食べられ、下手したら自炊以上に安上がりかも。
4度目にして、ようやく実現できたやはぎ湯治。自炊も楽しいですが、短期滞在ではこうして手抜きすることも贅沢のひとつ。
新しい大沢温泉の過ごし方と浜千鳥に程よく酔ったところで、今夜の〆であるそばが到着。こちらは水車で挽いた粉を使った十割そばを名物としており、田舎、更科から好みで選べます。
今回は、黒くて太めの田舎のかけを注文。そば粉十割ですがポソポソとした食感はなく、適度な歯ごたえと風味を味わえます。
やはぎは本当に安くて旨い。ボリュームもあるので、ひとりではこの3品だけでも大満腹。重たいお腹を抱え、自室へと戻ります。
その道中を柔らかく照らすは、障子から漏れる部屋の灯り。皆思い思いに過ごす湯治場での夜。その人々の営みが、光に一層の温かみを与えます。
自炊ではないので、食べたらそのまま、後片付けはなし。家では美味しくお酒を飲んだ後にも必ず洗い物が待っているので、このぐうたらこそが一番の贅沢。
心地良い畳の感触に身を任せつつ、ごろごろしながらだらだらお酒を。大好物である酔仙の特別純米酒、岩手の地酒が今宵の供。久々の再会に、岩手に来たという実感が一層深まります。
自宅から、遠く離れた岩手の地。それなのにこうして怠惰な時間を過ごせば、すぐにこの場に馴染んでしまうという不思議。
すっかり体内時計も大沢時間に調整されたところで、夜の静けさに包まれた大沢の湯へ。さらさらと流れる豊沢川は街灯に照らされ、立ちのぼる湯けむりの中ぼんやりと輝きます。
少しだけとろみを感じる、無色透明の美肌の湯。熱すぎずぬるすぎずの優しいお湯に浸かれば、全身をしみじみと穏やかさが包み込む。少しだけ火照った頬には、川面を渡る秋の夜風。これ以上言うことはない、文字通りの至福の瞬間。
一旦部屋に戻って一休み。今度は自炊部の内湯、薬師の湯へ。大小の湯船とカランだけというシンプルさですが、お湯を純粋に愉しむという湯治の精神を体現したかのような雰囲気が堪らない。
浴槽には緻密なタイルが嵌め込まれ、吹き抜けの空間を満たす湯けむりが幻想的。脱衣所との仕切りを成すガラス窓には、昭和の面影がゆらゆらと浮かぶよう。
男湯と女湯の天井が繋がる、昔ながらの造り。壁越しにこだまする東北訛りの夫婦の会話を耳にすれば、心の奥までじんわりと温まります。
お湯と空気感に火照ったところで、体を拭いて脱衣所へ。細かいタイルに彩られた丸柱と、優しい円弧を描く螺旋階段。決して華美ではないが、さりげなく添えられた昭和の美意識。この宿は、いちいちいちいち、味わい深い。
湯上がりに眺める、夜の湯治場。夜闇にぼんやりと浮かぶその姿を見れば、旅人を温めるのはなにも温泉だけではないということを教えてくれているよう。
江戸時代から人々を迎え入れてきた、正真正銘の湯治場。その風情にほだされ、岩手の秋夜は深まるのでした。
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