林間の小径を抜けると急に視界が開け、聳え立つ穂高連峰が目に飛び込んできます。何と爽快な眺めなのだろうか。強烈な印象を焼き付けるこの瞬間は、思わず鳥肌が立つ程。
ここだけが木の生えていない湿原。柔らかい色をした草の絨毯が敷き詰められた姿は、ここが何かのために用意された特別な広場であるかのよう。
その湿原を潤すのが、隣に佇む田代池。浅く広がる穏やかな池は、砂と水草が織り成す不思議な模様をまとっています。奥に見える険しい山容からは想像できない穏やかさに、ここが日本の屋根と呼ばれる地であることを一瞬忘れてしまいそう。
屋根に降った雪が長い年月を経て染みだし、それらが集まってできる流れ。その清らかさに、たゆたう水草も気持ちよさそう。誘うように揺れる姿に、視点も心も水底の世界へと吸い込まれてゆきます。
水も時間も穏やかに流れる田代池に別れを告げ、再び上流へと足を進めます。その前にもう一度、ぽっかりと広がる湿原の姿をこの目に焼き付けます。
穂高の上に居るという神様は、時折上高地に降りてくるのだろうか。もしそうならば、きっとここはそのひとつに違いない。
道は再び木々の中へと納まり、静かな葉擦れの音を聞きながらの散策に戻ります。途中、梓川の河原への分岐点を発見。大正池以来の梓川との再会。さらさらと流れる梓川を渡る風が、少しだけ汗ばんだ体をきれいさっぱり洗い流してくれます。
水の深さが変われば、青の深さも変わる。そのことを教えてくれる梓川の流れ。先程の大正池とは違う色を湛える姿に、僕の心まで爽やかな青さが戻ってくるよう。そう、大人になってくすみつつあった、かつて持っていた心地よい青さが。
これ程までに心底爽快と思える瞬間を、大人になってから体感したことはあっただろうか。世界に彩りを授けるお天道さまに向かって大きく伸びをすれば、体中から力が抜け、その分違う力が充電されてゆきます。
その習性は元来生き物に備わっているもののようで、羊歯も活き活きと天を目指そうとしています。自然に癒され、デトックス。余り好んで使う表現ではありませんが、この時の僕にはこれ以上の言葉は見つかりませんでした。
歩道は豊かな緑の懐から、豊かな水の裾へと移ります。その境界をなぞるように歩けば、水と緑と空、三位一体となった自然の一部に吸収されたような気持ち良さに包まれます。
ここまで、出会うごとに違う色を見せてきた梓川。無色透明であるはずの水が太陽の光を受けて織り成す、無限大の青のグラデーション。
豊かな色彩に包まれてきた日本には、きっとこれらを表すことばがあることでしょう。それを知らない自分が悔しくもあり、ことばという物差しを知らなくて良かったとも思えたり。
バスを降りてから1時間足らず。これまで目にした色彩は一体どれほどなのか。そう思う程、それぞれ違う顔を持つ色たち。青と緑で片付けるには勿体無い天然色に、いつしか全身が染まってゆくのでした。
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